最近「メタ認知が大事だ」という話の延長で、「メタ視点が大事だ」みたいなことが、本当によく語られるようになったなと思います。

そしてそれを「ドローン視点」という言葉で喩えるひとが、なんだか増えたなあと感じています。

地上に立っていると、目の前のものしか見えない。でも、ドローンを飛ばして上空から眺めれば、全体の配置がよくわかるんだ、と。

確かに「俯瞰的な視点」という意味では、わかりやすい喩えなのかもしれません。

でも、ぼくはどうしてもこの喩えに違和感があるのです。

メタ視点って、本当にドローン視点のことなのだろうか。

今日はそんな違和感を少し丁寧に書いてみたいなあと思います。

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コンテン、ドローンは、地上よりも高い位置から、広い範囲を見ることができます。ただそれは、結局のところ、視点の位置を高くしただけなんですよね。

地上にあったひとつのカメラを、上空に移動させた結果、確かに見える範囲は俯瞰的に広がったけれど、ひとつの固定された視点から世界を見ていることには、何も変わりがない状態。

主観を捨てて、より高い場所に「正解の視点」をひとつ置いただけ、とも言えます。

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じゃあ、本来のメタ視点とは何なのか。

ぼくは、ドラゴンボールの悟空の瞬間移動みたいな話だと思っています。(ただ、このような現代マンガに置き換えた理解も留意が必要で、後述します)

最低でも3点ぐらいを、瞬時に行ったり来たりできること。そして、どこかひとつを「正しい視点」として居着かないこと。

世阿弥の言う「離見の見」なんかも、まさにこの話ですよね。

あれは単に「客席から自分を客観視しろ」という話ではなく、舞っている自分の「我見」と、観客から見た「離見」を切り離さずに、舞いながら同時に観客の目にも立つという話のはずで。

つまりメタ視点とは、高さではなく、その視点の往復や、全体の気配、その人間的な直感における察知の問題であり、そこにこそ意識を向けろ、ということだと思います。

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じゃあなぜ僕らは、メタ視点をドローン視点のように説明したくなってしまうのか。

そこには、新しい技術が生まれると「人間も、その技術のようになるべきだ」と考えてしまう思考の癖があるからなんだろうなあと。

言い換えると、ドローンが上空から全体を見られるようになったから、人間の俯瞰能力もドローンのように説明されるし、それが説明する際にも非常に便利なわけですよね。

そして今、AIが複数の立場を並べられるようになったから、人間にもAIのような多角的思考なんかも求められる。

このように「その技術が新しく獲得した一点こそが、昔のひとや古典が説いていたものだったのだ」と、遡って現代で語られてしまう。

世阿弥の「離見の見」でさえも、このようなメタ認知やメタ視点であり、この俯瞰のことだったというふうに、です。

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でも、僕はそれこそがいちばんの落とし穴だと思うのです。

だって、人間の理想を「技術ができること」に合わせて定義してしまったら、最後には必ず「じゃあ、もうおまえいらない」となるわけですから。

全体を漏れなく見ることなら、ドローンのほうが人間よりも上手に決まっている。膨大な情報を整理して、複数の立場を並べることなら、AIのほうが圧倒的に速いわけです。

「だったら、もうドローン×AIでいいよ、人間いらない」となってしまう。

だからこそ、技術ができることの中にではなく、技術にはできないことの中にこそ、本当のメタ視点を探したほうがいい。

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で、ここからが今日いちばん書きたかったことなんですが、これとまったく同じ構造の話が、現代における古典の紹介のされ方にもあるなあと思っていて。

たとえば、「清少納言は、現代のインフルエンサーみたいなもの」とか「『枕草子』は、平安時代のSNS」で「いとをかしは、今でいうエモい」みたいなやつです。

現代の若者にも古典に興味を持ってもらいたい、なるべく間口を広くして身近に感じてもらいたいという気持ち自体は、とてもよくわかります。

それが入口としては有効な場合もあるし、ぼく自身もつい使ってしまうことがある。

でも、それをやりすぎてしまうと本末転倒だなと。

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なぜならそれは、古典のほうを現代まで連れてきて、自分の知っているカテゴリーの中に格納することだからです。

古典との距離を縮めているようでいて、実際には、今の自分の立場から一歩も動いていない状況。

言い換えるとこれは、「現代」という一点に居着いたまま過去を眺める、空間軸ではなく、時間軸におけるドローン視点なんですよね。

わかりやすくたとえるなら、ドラえもんのタイムマシーンに乗って、安全な観光客の立場から、物見遊山的に過去を見物しに行くような感覚。

「昔のひとも、私たちと同じように悩んでいたんですね」と、安心して帰ってくるような感覚です。

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でも本来、古典を読む価値は、その真逆にあるはずなんです。

過去を現代へ連れてくることではなく、現代に無意識に居着いてしまっている自分のほうを、過去の世界へと移動させること。

客体として眺めるのではなく、自分がそちら側の人間の中に入ってみること。相手を自分の中にくぐらせて、同時に、自分も相手の中を、丁寧にくぐってみること。

そして、なぜ当時の彼女たちは、その風景を「をかし」と感じたのか。どういう暮らしと身分秩序があり、どういう光や音や季節感の中で、その言葉が立ち上がったのか。

「をかし」という感覚が成立する世界の重力みたいなものの中に、一度、自分の身体を置いてみる。

当時は当時の価値観の中で、静かに、でもハッキリと蠢いていたものが確かにあるはずで。そちら側に目一杯耳を澄ますことこそが、古典を読むいちばんの価値のはずなのです。

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そして、この「現代の〇〇」のもっとも露骨なかたちが、「武器になる哲学」や「ビジネスに効く教養」みたいな発想だと思っています。

哲学を知っていれば、ビジネスの交渉の現場で勝てて、古典を引用すれば説得力が増すし、教養によって、他人よりも優位に立てるのだ、と。

東浩紀さんが「ビジネスツールとしての教養ってあまり意味がない」と一貫して批判してくれていますが、ぼくも以前から、その話題に対し、とても共感しながら眺めていました。

先日の東浩紀さんと斎藤幸平さんとの対談の中でも「思想を、自分がすでに望んでいる結論を正当化し、ひとを動員するための道具にしてはいけない、むしろ思想の側から、自分自身の目的や実践のほうが問い直されなければいけない」という趣旨のことを東さんが語られていて、本当に強く膝を打ったばかりです。

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ではなぜ、教養は武器にならないのか。

武器というのは、目的が先に決まっているものだからです。

目の前の敵を倒すとか、競争に勝つとか、状況を自分の有利にするために用いるもの。

言い換えると、自分の目的は最初から一点に固定されていて、知識はそのための外付けの「装備」にすぎない。

つまり武器としての教養とは、「今の自分」という座標に居着いたまま、装備だけを強化していくような発想なんですよね。

しかも、知識を装備として使うだけなら、いまや検索やAIのほうがずっと速くて正確なわけです。武器としての教養は、真っ先にAIに代替されてしまう教養でもある。

ここでもやっぱり「じゃあ、もうおまえいらない」となってしまうわけです。

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でも、教養が本当に自分の身体の中に入ったときに起きるのは、その真逆のことが起きるはずで。

そもそも何をビジネスの目的にするのか。誰を自分の敵だと思ってしまっていたのか。自分は本当は何を望んでいたのか。その大前提まで含めて、本当にガラッと変えられてしまう可能性を秘めている。

「男子、三日会わざれば刮目して見よ」という言葉は、それを僕らに見事に教えてくれているなあと。

つまり、教養とは外側の装備ではなく、内面から身体の一部になるもの。自分が相手の中をくぐり、自分の中に相手をくぐらせること。

だからこそ、単なる道具には絶対にできないことなのだと思います。

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本来、古典や歴史から受け取るべきなのは「昔のひとにも、現代と変わらない人間性があった」という安心ではなくて、むしろその真逆の感覚だと思っています。

もし、その時代に自分が生まれていたら、自分も大坂本願寺を絶対に焼き尽くしていただろうな、とか、戦中のアメリカに生まれていたら、自分も日本に原爆を落とすことを間違いなく支持していただろうな、とか。

そういう感覚に耳を澄ませるほうが、本当に大事だなと。

誤解のないように書いておくと、これは「当時は仕方なかった」と過去の加害を免罪するための話ではありません。

むしろその正反対で、「自分だけは歴史の外側に立てる」という思い上がりを壊すための想像性こそが大事だという話を僕はここでしたい。

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過去に何度もご紹介してきた親鸞の言葉、

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。(ひとはいかなる業縁に催されて、いかなる振る舞いをするかわからない)」


この感覚も、まさにこれですよね。

悪を行う人間と、善良な自分が、最初から別の種類の人間として存在しているわけではない。

生まれた場所や時代、恐怖心や正義感、そうした条件が変われば自分も容易にそちら側へと傾いてしまう。

その可能性を、自分の内側に見つけること。親鸞は、それをちゃんと僕らに戒めてくれているわけです。

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そして、現代の価値観だけで過去を裁くキャンセルカルチャーの危うさなんかも、まさにここにあるのだと思います。

一見すると、高いところから歴史を俯瞰しているように見える。

でも、それっていうのは実際には「現代こそが歴史の終着点であり、もっとも進歩した正解の位置だ」という一点に、完全に居着いてしまっている状態にある。

高いところから見ているつもりで、ひとつの座標からまったく動けていない。いちばん、未来から批判されてしまう態度です。

もちろん、理解することと、許すことは違います。相手の世界に入ることと、自分の判断を捨てることも違う。

ただ、一度そちら側へ行き、その世界の必然に目を向けて、現代へ戻ってきて判断するような、その往還がなければ、ぼくらは過去を裁いているのではなく、現在の自分の正しさを一生懸命に確認しているだけの状態になってしまいかねない。

そしてこれは、過去に対してだけの話でもありません。

自分には簡単に理解できない世界の切り分け方が、同じ時代のすぐ隣にも存在している。それを認めて、そちら側の立場に目一杯、耳を澄ましてみること。

それが、多様性という言葉の本来の意味や価値でもあるはずだと、僕は思います。

だからこそ、人間に残されているメタ視点とは、視点を数多く獲得する能力のことではなく、別の視点へ移動したことで、元の自分の欲望や態度や責任までもが、ガラッと変形してしまうことなのだと思います。

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最後に、入口がわかりやすくなることも、動機がビジネス界における社会的成功のような俗っぽいものであることも、まったく否定しません。嘘も方便ですから。

むしろ最初の入口、甘美な誘惑としては、大変素晴らしいことだと思っています。

ただ、そこから先へ進んでいって初めて、「裏の裏」と呼べるような場に到達することができるんだろうなあと。

だからこそ、ちゃんとそこまで共に歩んでいけるような継続的なつながりをつくりたい。

長年共に歩むコミュニティ的なつながりによって、ちゃんと自分がガラッと変わってしまって、その結果として、腑に落ちる体験までを丁寧に落とし込んでいきたい。

Wasei Salonがそんな場として活用してもらうことができたら、僕としては本望です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。