「FiNANCiEはバブルなんですか、今からだともう遅いんですか?」

最近よく見かける質問です。聞きたいことはよく理解できるけれど、質問自体が若干ズレているようにも感じます。

FiNANCiEは株式と違ってその裏付けとしての実態が存在しない以上、構造としては最初からずっとバブルだとも言える。

極端な話、1円のものが2円になっている時点で、ある意味ではバブルです。

たとえば、これは株式と比較するとわかりやすくて現在のエヌヴィディアは昨年からグングンと価格が上昇していますが、その上昇以上に会社としての収益が増えているから、株価はまだまだ割安感がある、という話は最近はよく語られている話です。

でもどう考えても、その上がり方が尋常じゃないから「この急速な株価上昇は、AIバブルだ!」と語るひともいれば、「そうじゃない、まだまだ企業の業績通りか、もしくは割安なくらいだ」と語る人もいてその意見が真っ二つに割れるわけです。

なにはともあれ本来、このように実態との急激な乖離があることを指して「バブル」というはずであって、それはチューリップ・バブルもドットコム・バブルも、日本の80年代後半のバブルもすべてそう。

でも、FiNANCiEの場合は決してそうではない。

何かプロジェクトの実態的な売上などと現在の額面価格が紐づいているわけではないので、良くも悪くも、あくまでアプリ全体の雰囲気で価格が決まっている部分が非常に大きいです。もちろんそこに法的保護があるわけでもありません。

つまり、上位にあるプロジェクト群は、あくまで市場全体の中での需要と供給、あとはFiNANCiE内の相対的な評価によって、価格が決まっているだけに過ぎないんですよね。

ーーー

では次に、何によって価格が上がっているのか。

その仕組みは何か?が問題となるはずです。

こちらも端的に言ってしまうと、価格を上昇に寄与するようなハック術が発明されているかどうか、この部分に尽きると思います。

言い換えると、その方法で需要と供給の部分で圧倒的に需要のほうを増やせれば、自然と価格は上がっていくし、そのハック術が一通り出尽くしてしまうと、ストンと落ちるという割と単純な仕組みです。

ーーー

で、今後の展開としては、平時の状態で、1トークンあたり1,000円を常に超えるプロジェクトが当たり前のように出てくればそのトップに引かれて、全体が底上げされる。

ある程度流動性がある十数位ぐらいまでのプロジェクトであれば、途端に割安感を感じられて相対的に引き上げられるから、先に入っていた人たちは全員が含み益が出るという状態となる。

その状態がSNSでも広く拡散されて、あとから新規参入してきたひとも買いに走るため、また需要が高まる。

だから、1位の価格が常に塗り替えられるたびに、この上昇相場は続くということですよね。

そうやって、現状の1位の新たな価格を打ち立てられるだけのポテンシャルを持つハック術が生み出され続けている限り、上昇局面は続くわけですよね。

それはNFTのときも全く同様です。

ALが採用されて、さらにAL磨きも導入され、その中でも純米大吟醸と呼ばれるような磨きに磨かれたALを用いたLLACが出た直後あたりが、最高値をつけたのも今振り返ると、それが理由だったんでしょうね。

ーーー

で、FiNANCiEに関して言えば、今そのハックの1つ目である「簡易的なAL機能」が始まったばかりに過ぎない。

これによってうまくいけば、1トークンあたりが1,000円を超えてくるプロジェクトも間違いなく出てくると思います。

さらにこのあとにも、様々なハック術、具体的には法人プランのようなもの、ロックアップ解除で大口投資を優遇するなど、市場の1位が当たり前のように数千円という価格の次元に到達したら、ほかのプロジェクトも数百円代が当たり前となる。

だから、そのような状況がやってきたときにはじめてバブルだとも言えるし、今も十二分にバブルだと言える。

僕が、この問い自体がズレていると思うのは、これが理由です。

つまるところ、仮想通貨もそうですが、背後に実態のないマーケットは、じゃぶじゃぶのリスクマネーが溢れるタイミングで、その恩恵を受けているひとたちの横のつながりによってハックがなされ続けるあいだは、その価格が上がり続けて、その一攫千金感の危うさにワンチャンの期待を抱く一般層のギャンブルマネーが結合し続けるかぎり、上昇相場が続くということなのでしょうね。

ーーーー

さて、ここまでの話を裏返せば、落ちるときは、どこまでも落ちていくということです。

実態がないわけですから、こちらも当然のことです。これはまさにNFTでも起きたこと。半額でも10分の1でも際限なくドンドン落ちる。

良くも悪くも、株式のように実態がないのだから、上は青天井で下は底なし沼という理解で間違っていないと思います。

トークンを用いたWeb3関連のプロジェクトに関しては、これがほぼほぼ答えであると思いながら僕は触っています。

ーーー

そうなってくると、そもそも「利確」するという前提で買うという行為自体がおかしいという話にもなってくる。流動性プールの特殊性もありますからね。

今日の本題はここからで、だから「売って利確しよう」とする前提で買おうとするのはやめたほうがいいのかもしれないなと。

それよりも、ここはもっと金銭とは違う「何か」を得る場所だと捉えたほうが良いのかもしれません。

これは今日、イケハヤさんもスペースの中でお話していましたが、現代のようにお金がじゃぶじゃぶに溢れていて、その価値が相対的に下がっているときに、もっともっと違う「何か」、具体的には信頼のようなものを僕らは耕す必要があって、それを得るための実験場みたいな感じなんですよね、今のFiNANCiEやNFTって。

でも、これはものすごく逆説的なんですけれど、だからこそ「お金の重みづけ」を利用したほうが良いということでもある。

なぜなら、それが言葉に変わって、万人にとって一番わかりやすい「重みづけ」だからです。自他ともにいま体重を乗っけているんだということを、ハッキリと理解できる。

口だけではなく、誰にとっても大事なものを差し出すことによって、行動で示すことができるし、その行為によって同じ船に乗り、ステークホルダーとして仲間にもなることができる。

そこに「吊り橋効果」のようなものも生まれてきて、その重しのような役割を果たしてくれるわけです。

ーーー

で、これはきっと現代で当たり前になってしまった「交換文化」の裏返しなんですよね、きっと。

僕らが、「赤の他人」という言葉を用いるとき、その定義は様々ありますが、多くの場合、代替可能性があるという意味合いであるはず。

「このひとが、この人である必要性がない」というとき、その相手を僕らは赤の他人と呼ぶし、相手をただの「コスト」だとも認定する。

その時、目の前の相手を、よりコスパや、タイパが良い相手に変えたほうが合理的な判断だとなるのが当然です。

で、僕らは現代社会を生きるうえで、これを痛いほど日々痛感させ続けられているわけですよね。

どれだけ「そうじゃないよ」ということをお互いに優しく言葉で伝えあってみても、その世界線でバシバシに傷つき、疑心暗鬼になっている人たちにとってはそこには何の信憑性もない。

先日、キングコング西野さんがVoicyの中で「絶対に見捨てない」ことの重要性が語られていましたが、「この見捨てられない」ということ、「あなたは私にとって余人を持って代えがたい存在です」という表明、それを示すためには逆説的なんですが「トークンの含み益が、どれだけ膨らんでも利確をしない」や「交換(条件)を求めずに、相手に贈与する」ということなのではないでしょうか。

ーーー

それは、相手の存在価値を最大限に祝福していることになるわけですから。「余人を持って代えがたい」の客観的証明にもなる。

その意思表示を示すためには、より良いものに乗り換えられる状況、その選択肢があるにも関わらず、あえてそうしないこと。

つまり、変な話なんですが、圧倒的な交換可能性が目の前に存在しないと、それを示せないというわけです。

より良い物に乗り換えない、交換しないという、その不作為こそがまさに、今誰もが欲している「絶対に見捨てない」だったり「あなたは、余人を持って代えがたい存在」ということの、一番の他者への証明にもなる。

ここが今日一番強く伝えたいポイントです。

ーーー

ということで、いま合理的利他主義戦略として存在していた「ガチホ理論」が次のフェーズに来ているように僕には思えます。

言い換えると、これまでのガチホ理論は換金という出口戦略ありきの話だった。そうすることで全員がより高額なお金を得るチャンスがあるよね、と。

でも、たぶん今回はそうじゃない。その出口自体を、そもそも必要としない意思表明、その贈与的配慮にこそ意味がある。たぶん、これは伝わらない人にはまったく伝わらない話です。

もちろん、交換と贈与というのは、かなり曖昧なものなのです。

相手からの見返りを求め、そこに直接的に利益があれば、それは交換であるといえるけれど、贈与だって間接的な因果関係のもとで、もし利益があるのであれば、広義の交換とも言えそうです。

そもそも欲望のない意思表示なんて存在しない。そしてひとは、何かしらの意思表示をしたくて、他者に贈与をしている。

でも、贈与はこんなふうに曖昧なんだけれど、曖昧だからこその贈与でもある。昨日もご紹介した『贈与の系譜学』には以下のような話が書かれてありました。

「交換なのか?それとも贈与なのか?」と自己の行動と向き合うこと、そしてそれに突き当たって、一瞬、動きを中断されること、疑問符を付けられ、問い直されること。それこそが、逆説的に聞こえるかもしれないにせよ、ほんとうに贈与的であろうとするためには重大なことである、と。

これは本当にそのとおりだなと思います。

つまり、今こうやって「これはなんだ?贈与なの…か…?」と考えていること自体に、贈与の価値、その答えがある。

ーーー

昨日も書きましたが、大事なことはこれが起こることで、一体何が僕らの中で逆回転し始めるのかが、めちゃくちゃ重要な視点だと思っています。僕らの内的変容のほう。

繰り返しますが、そうするとお互いの言葉を、また徐々に信じ合うようになるはずなんですよね。だって、お互いに有言実行がなされるわけですから。そして僕はこっちの変化に真の意味があるんだろうなあと思っています。

マーケットの論理とお金を最大限に用いながら、「脱・お金の実験」をしているような感じがしていて、本当に不思議な感覚です。

なにはともあれ、いま盛大な社会実験をしている。これは本当におもしろいし、これからも目が離せません。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。