今日は昨日の続きのような内容です。
昨日の内容を簡単に復習しておくと、FiNANCiEに一番期待してはいけないことは、短期売買によるキャピタルゲインです。
一方で長期投資においても、そこまで功を奏することはありません。なぜなら、流動性プールの特殊性ゆえに、アプリ内で表示されている含み益を額面どおりには絶対に現金化できないからです。
その含み益というのは、完全に絵に描いた餅。
でも、じゃあFiNANCiEには全く意味がないのかと言えば決してそうではなくて、この時に僕らが本当に得るべき価値というのは、アプリ上に表示されている額面通りの価値を他者に手数性がかからずに簡単に贈ることができること。
そして、他者も額面通りの価値を受け取ったと認識してくれる、そんなお互いの「擬似交換の体験」それ自体に価値があるのだと。
その時に生まれるのは、自分のための金銭的メリットというよりも「コミュニティ内での結束力の高まり」であり、お互いの認識の変化をそれぞれに生じさせてくれるところにその価値があるんだというのが、昨日の内容でした。
では、なぜひとはそんな金銭的な「価値」があると、認識が大きく変化するのか?
言い方を買えると、そのような「価値」による担保をなぜひとは要求するのか?
そんなことを考えたくなったので、今日はそんなお話を少しだけ。
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で、まず結論から言うと、今日のタイトルにもある通り、現代は「言葉」があまりにも軽くなりすぎてしまった世の中だからなのだと思います。
これは、やっぱりWeb2のせいであり、その揺り戻しの側面が非常に大きい。
具体的に説明すると、Web2の進化によっておきた「情報」の民主化によって、言葉や文字がネット上に無限に氾濫する世の中になってしまったわけです。
この点、そもそもひとは、「価値」をやり取りすることで、一体何をしたいのかと言えば、究極的には相手に対して何かしらの「意思表示」をしたいわけですよね。
それは例えば「私はあなたに感謝をしています、私はあなたを応援しています、私はあなたとこれからも良好な関係を築いていきたいです」というように。
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でも、現代はそのような言葉に対する信頼が本当にペラッペラに薄いのです。まったく信用に値しない状況。
それは、政治家が自らが発言したことを当たり前のように守らないことなんかもわかりやすくそうですが、言葉や情報が無限に生成されて表明され続けているのが現代社会です。
なぜなら、その表明するコストが限りなくタダに近くなったから。何もコストが発生しない以上、言葉の「価値」がだだ下がりするのは当然のこと。結果として誰も言葉を信頼しなくなりました。
さらに、そこに輪をかけるように生成AIが登場してきて本当に無限に言葉を生成できるようになりましたよね。
結果として、お互いに疑心暗鬼になってしまっているような状態が、まさに今だと感じます。
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ただし、その言葉と同時に「価値」がついているトークンを送り合うことによって、言葉に対して、その重みが増すわけです。体重を乗っけることができる。
この話は、わかりやすく喩えてみると、きっと給料三ヶ月分の婚約指輪、みたいな話で。
本来、プロポーズの場面は「言葉」だけでも構わないはずなのです。
では、なぜ「言葉」だけで意思疎通できる人間がプロポーズするときに、わざわざそのようなものを同時に贈与しようとするのかと言えば、いかに自分が本気なのか、ということを相手に示すためだったのだと思います。
他にも、戦国時代に忠誠を誓う武将に対して自らの親族を人質として送ったのも、それと非常によく似ているような話かもしれません。
その言葉の重み付けのためのものとして「価値」の重み付けを利用して、しっかりと信頼に値するものとしている。
「応援していますよ、感謝していますよ、これからも良好な関係性を築きましょう!」という言葉と同時に、そこにトークンを介在させるのは、これと全く同じような論理。
そして、そのトークンがどれだけ含み益が増え、額面が膨れ上がっていったとしても、それでもガチホを続けますよ、これだけ数字が膨れ上がっても私は保有している、ということはこの言葉自体にウソはないですよね…?と、言い合えるわけです。
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そんな信頼ゲームみたいなことを延々とやっているのが、NFTから始まったムーブメントそして今のFiNANCiEの流行そのものだと思うんですよね。
なぜ、そんなことをしているのかと言えば、繰り返しになりますが、Web2時代には圧倒的に言葉が軽くなりすぎたからです。
いうなれば、言葉のインフレ状態がまさに今。
せっかくインターネット上でつながって、お互いの言葉さえ信用し合えば、もっともっとコミュニティの価値を高めていけるのに、それができないまでに今は言葉が薄っぺらいものになってしまった。
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この点、最近また「贈与」について勉強したくなって、講談社選書メチエから出ている『贈与の系譜学』という本を読み始めたのですが、この本の冒頭ですごく面白い記述が書かれてありました。
贈与の本質とは何か、ということを非常に端的に表現してくれているかと思います。
少し本書から引用してみたいと思います。
原初の人々は、自分たちが作業して産み出した富(の一部)を、まず神々や精霊たちに贈るが、こういう富は自らにとって最も大切な、貴重な生産物であり、そんな重要な富を犠牲にして捧げるからこそ、贈与はまさに贈与としての価値を持つ。この点はきわめて重大な意味を有しているのではないか。
すなわち、ひとが贈与するということは、根本的に探っていくと、このうえなく大切なもの、(その人にとって)特有な、唯一の、最愛のもの、それゆえ(贈与しえないもの)を贈るということではないだろうか。譲ることや手放すことなど考えられない何か、最も貴重な何かを手放し、放棄するという仕方で贈ること。それこそが、そしておそらくそれのみが贈与することなのである。
現代人にとって、そのひとつが「お金」であることは間違いない。少なくとも全員同じように「この上なく大切なもの」という尺度を持ち合わせている唯一のものです。
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で、この担保が健全に機能し始めると、今度は一体何が起きるのか、何が逆回転し始めるのか?がめちゃくちゃ重要な視点だなと思っています。
お互いの言葉をまた徐々に信じ合うようになるんですよね。だって、有言実行がなされるわけですから。
そして、僕はこっちの変化に真の意味があるんだろうなあと思っています。
「ステークホルダー同志で、お互いにメリットがあるよね?」と握り合える関係性があれば、ネット上の赤の他人でも、信頼しようというインセンティブが生まれる。
しかもそれはただの不作為でよくて「売らない、ガチホする」など、ただそれだけ。裏切ることもクリックやタップひとつで非常に簡単にできるのだけれども、逆に守ることも非常に容易いことです。
そして、実際にその有言実行が繰り返されると「前回も本当だったから、今回も本当だろう」と予測可能性が働くようになるし、自分も他者に自分の言動を信じてもらえることの気持ち良さみたいなものが身体感覚を通して体感できているので、更にそれを繰り返していくわけです。
すると、その場に参加している全員の「世界認識」自体が大きく変容してくる。
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極端な話「目の前のひとの言葉を信じても良いんだ、人に信じてもらえることはこんなにも喜ばしいことなんだ」となり、そこから「この世は生きるに値する」という視座の転換が起こり始める。これが共同幻想の力なんだと、僕は思います。
そもそも現代を生きる僕らが、会社を信用しなくなったのは、会社は口では「社員が宝」のように偉そうなことを言いつつも、人間を完全に「コスト」としてしか考えなくなったから。
そこでお互いに疑心暗鬼になるのも当然のことです。
結果として告発、暴露、炎上、陰謀論などなど言葉が無限にあふれる社会によって生まれた人間同士の不信感の極みが噴出した。SNSの登場により、そのような本音と建前の二重性が散々に深まり続けたのが過去10年間だったと思います。
だとしたら、そこをもう一度信頼を取り戻すうえで、言葉に信憑性をもたせるためのそのひとつの答えが「トークン×コミュニティ」という掛け合わせだったということなんじゃないでしょうか。
これが今日の結論です。
合理的な振る舞いをしていくうちに結局、お互いの世界認識自体も良い方向へと変容していく、そこにこそ価値がある。
もちろん、最初の段階においては前の時代を知っている僕らのような人間からすると、なんだかライアーゲームみたいだなと感じてしまって、偽善的で気持ち悪く感じる瞬間もあるんだけれども、このような行動が当たり前の世代の子どもたちが大人へと成長してくると、世界はガラッと変わる。
それは僕らよりもちょっと下の世代が、教科書通りに環境を配慮し、人権を重んじて、平等性を強く希求しているのと全く同じような話です。
僕らの世代で、ここを変革できるかどうかに掛かっているんじゃないでしょうか。
ゆえに僕は、今回のトークンエコノミーの機運の高まりは、本当にタイミング的にもバッチリで、めちゃくちゃおもしろい実験が始まっているなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/03/09 20:31