先日、Wasei Salon内で高橋源一郎さんが書かれた『「読む」って、どんなこと?』という本の読書会が開催されました。
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これはNHK出版から出ている「学びのきほん」シリーズの1冊で、Wasei Salonの中では毎月2回、このシリーズの読書会を定期的に開催しています。
ちょうど今週開催されたのが、高橋源一郎さんの『「読む」って、どんなこと?』だったんですが、その中で非常に重要なことが書かれてありました。
それが今日のタイトルにもあるとおり、問題山積みの文章こそ「いい文章」だというお話です。
今日はこのお話を、このブログの中でもご紹介してみたいと思います。
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では早速、該当箇所を本書から少し引用してみます。
わたしには、ひとつ、大切にしている原則があります。もちろん、これは、わたし個人の原則です。どこでも通用するものではありません(ほんとうは、どこでも通用するものだとは思っていますが)。 それは、たくさん問題を産み出せば産み出すほど、別のいいかたをするなら、問題山積みの文章こそ、「いい文章」だ、ということです。つまり、その文章は、問題山積みのために、それを読む読者をずっと考えつづけさせてくれることができるのです。
ちょっとメタ認知っぽくなってしまいますが、この原則自体がものすごく議論を呼びそうな内容ですよね。
ゆえにこの意見自体が、僕は本当に素晴らしい原則だなと思います。
この点、多くのひとは世間でなるべく議論されないようなハレーションを起こさない文章ほど、良い文章だと思いがち。
糸井重里さんの以下のツイートが定期的にバズるのも、そのような思い込みをしているひとが多いことを象徴しているかと思います。
じゃあ、なぜ高橋源一郎さんは、そのような一般的な解釈とは真逆の「問題山積みの文章が、いい文章だ」とするのか。
高橋さんは、以下のように続けます。
それを読んでいると、不安になったり、それを読んでいることを隠したくなったりする、つまり、問題山積みで、できたら近づきたくないような文章、 そういうものこそ、「いい文章」だ、とわたしは考えています。 なぜでしょうか。 素晴らしい比喩がたくさん使われていても、ボキャブラリーが豊富でも、精密な論理で構築されていても、ワクワクドキドキするようなお話が満載でも、読んだことのない、聞いたことのない知識や情報がいっぱいあっても(以下、ふつう、「いい文章」の条件だと思われていそうなものを、付け加えていってください)、そんな「文章」は、それを「読む」読者を、ほとんど変えないからです。 問題山積みの文章だけが、「危険! 近づくな!」と標識が出ているような文章だけが、それを「読む」読者、つまり、わたしやあなたたちを変える力を持っている。
さて、いかがでしょうか。
僕はこの「わたしやあなたたちを変える力を持っている」という理由が本当に素晴らしいなあと思います。
どうしても僕らは、何か文章を読むときに、自分の今の意見の補強をしてくれるものばかりを追い求めてしまいがちです。
でも本当は、自分が変わってしまうために、文章とは読むものだと思います。そして、それが学問の本質です。
それは以前「他人を殺すな、自分を殺せ」という配信回で、養老孟司さんの『わかるということ』という本をご紹介したときにも、丁寧にお話をしたとおりです。
ぜひこちらも合わせて聴いてみてもらえると嬉しいです。
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思うに、自分が変わるためには、自分の中で強烈なハレーションを起こすような意見(他者)と出会わなければいけない。
言い換えると、変わってしまいそうになる自分にハッと自覚的になることが、日々僕らには求められているわけです。
だからこそ、文章を書くときには「これは問題山積みの文章になっているだろうか」と考えることは非常に大事な作業なんだろうなあと思います。
そうやって、自分自身が問題山積みの文章を読んだり書いたりしていると、ちょっとやそっとじゃブレなくもなってくる。
これは意外だと思われるかもしれないんですが、結果として、他者に対しても自然と寛容になれるんです。
たしかに、そんな考え方もあるのかもしれない、と踏みとどまれるようになる。
言い換えると、問題山積みの文章に触れるほうが自己が安定してくるんですよね、不思議なことに。
それは一点に固定されているというような安定性が獲得できるというわけではなくて、もっと動的に安定しているような状態です。
問題がある文章のほうが、他者を傷つけ、他者を排除し、一点の自己に固執してしまいそうなんですが、実際のところはそうじゃないんです。
私の中で常にバランスが取れる状態に近づいてくる。正解が「わからない」からです。
唐突に自分の馴染みがない意見が飛んできたときにも動じずに、もっとしなやかな状態を保つことができる。
逆に、安心安全で正解の文章ばかりを読んでいると、変わらない自分、つまり硬直化した私になってしまう。
そうやってひとは、ドンドン不寛容な人間になっていくのです。
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だからこそ、日頃から問題山積みの文章に多方面から触れて、日々ドキッとする経験をたくさんしておくことは、実はすごく大切なことなのだろうなあと思います。
もちろん、あえて無理やり、社会の中で燃えそうな意見を打算的に書くことは言語道断だと思いますが、自分が本当に書きたいと思うこと、読みたいと思うものを支援した結果として、社会の中で炎上してしまうことは、まったく違う。
つまり、安易に「角をとるな、丸くするな」ということです。
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というか、そのような角がとれた丸い文章というのは、もうすべてをAIが書いてくれるようになるはずです。
でも一方で、問題山積みの文章というのは人間にしか書けない。
いや、厳密に言えば、AIにも問題山積みの文章は書けなくもない。
でも、そんな問題山積みの文章がAIから出力されたとしても、きっとすぐに消されてしまうはずなんです、エラーだとして。
これは議論に値しない、取るに足らない文章だと。一理あるかもしれないなんて思われることは、絶対にないと思います。
その結果、AIの意見はどんどんとポリティカル・コレクトネスに強くバイアスがかかっていくようになるでしょう。
でも、問題山積みで、社会の中で多くの人がエラーだと判断するような文章は、人間の署名入りの文章だけです。
このようにエラーを、自分の意見として真正面から主張できるのは、生身の人間だけなんです。
しかもそれは、AIに補助してもらった文章だとしたら絶対にダメで。
自分の身体性から立ちあらわれてくる言葉を頼りに、ひとつひとつ自らで紡いだ言葉でなければいけない。
なぜなら、どれだけ署名入りの文章だとしても、これはAIに教唆されて書かされた文章なんだと言われて否定されてしまいかねませんからね。
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AI時代に人間に残された道は、問題山積みの文章を書いていくことだけだと思います。
それができない人間は、書き手としては淘汰される。
AIのアシスタントや編集者のような職業となっていくことでしょう。
今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの問題を考えるきっかけとなっていたら幸いです。