「所有」と「シェア」について考えることが再び増えてきました。

コロナの影響で多くの人のライフスタイルが変化し、それが常態化してきて、わかりやすいトレンドとして社会に反映されるようになってきたからでしょう。

「自家用車」において、ものすごくわかりやすい揺り戻しが起きていることも、おもしろい変化だなあと感じます。



「所有しないと、やっぱり愛着が湧かないよね」「人の持ち物だと、自由を感じられなくて気分が上がらない」

なんとなく共感できる感覚です。

ただ、一方で思うのは、このときに物自体には何の変化も起きていないということ。

徹頭徹尾、その対象に対しての自己の心持ちや意識の部分が変容しているにすぎないのです。

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これを別の側面から考えると、「他者に奪われるかもしれない」といった「侵害される恐れ」や「失う恐れ」が生まれて初めて、アイデンティティというものは形成されるということでもある。

たとえば、ウクライナ国民が戦争が始まったことにより、一気にウクライナ人同士の結束力が高まり、ナショナルアイデンティティが形成されていったように。

ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』で語られているような「ナショナリズム」は、ある意味で20世紀の過去の遺物だと思っていたけれど、21世紀においても同様に成立し得るものなのだと。

つまり、愛情や愛着の起源というのは「他者からの侵害」によって、それに反発しようとする際に初めて立ちあらわれるものなのかもしれないなあと。

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もちろん、その事実自体を否定したいわけではありません。

状況の変化から人間は学ぶわけですから、そうやって手触り感のある経験の中で、強い確証を得ていくのも当然のことでしょう。

でも一方で、「自ら先につくり出せないのか」とも思います。

失って初めて気がつくのではなく、最初から分け隔てなく接することができないだろうか。

それは所有だろうがシェアだろうが、関係ない。

物自体には何の変化もないのだとしたら、自分の意識の方をどうにかコントロールできないものなのか。

もちろんこの話は物だけではなく「対人関係」においても、全く同様のことが言えると思います。

「自分の家族だから大切にして、赤の他人だからどうなったって構わない」と思うのは、完全に幻想でしかない。

私と目の前の相手との関係性の中に、婚姻や戸籍上のつながりなど、何か社会的に強い契約関係(及びそれに匹敵するほどの関係性)がなければ、態度が変容できないというのは、どう考えてもおかしいです。

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最初の問いに戻ると、シェアするように所有できないか、所有するようにシェアできないか。

対人関係においても、赤の他人を家族のように、家族を赤の他人のように接することはできないのか。

自己の権利として、第三者や国家の承認や担保がなければ信用することはできない、失われるまで自己の態度を変容することができないというならば、それは自分の評価基準や価値観を他者に完全に明け渡してしまっていること、その何よりも強い証拠となってしまう。

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何事においても、分け隔てない態度で接していきたい。

難しいことだけど、これからもチャレンジし続けてみたい心の態度です。

参照: ものさえ、ものとして扱わない。

きっとその時のカギとなる概念は「手入れの感覚」や「育成している感覚」なのだろうなあとも感じます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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