最近、自分にとってブログを書くとはどういう行為なのかを、改めて聞かれる機会が続きました。
そのような質問をしてきてくれる方々の相談を聞いていると、その背景には「公開する文章は、美しくなければならない」という強迫観念のようなものが見え隠れします。
その気持ちは、とても共感できます。
ただ、一方でそれは「世間に出す」ときの話であって、「自分から出す」ときに既に、そのような状態になって文章が出てくる必要は全くないと思っています。
どうしてもブログなどで公開する前提で文章を書き始めると、自分から出てくるタイミングで、最初から綺麗にしようとしてしまうということなのでしょう。
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それは喩えるなら、自分の中から言葉を捻り出そうと思ったときに、最初から「敬語」で話そうとしてしまう感じにとてもよく似ているかと思います。
しかし、当然のことですが、下書き段階で「敬語」である必要なんて全くありません。
敬語という道具を用いてしまうと、どうしてもその社会的な構造をそのまま、思考の中にも取り込んでしまうことになる。
もちろん、それが功を奏する場合もありますし、わざわざ二段階で清書するのが面倒くさいという場合は、初めから敬語(及びそんなムード)で書くこともアリでしょう。
でも、大抵の場合「何かを書きたい」と思うときは、まだ自分が何を書きたいかあまりよくわかっていないから書くはずなんですよね。
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だからこそ、自分のなかで蠢いているものは、そのまま自分の下書きの中にすべて書き出してしまうことをオススメしたい。
そこに他人に対しての悪口や、どうしようもない怒りが含まれていたって別に構わないと思います。むしろ、そんなモヤモヤやドロドロしているものをそのまま一度すべて書き出して、腑分けしていく作業が大事。
そこで「なるほど、こんなものが含まれていたのか」を知ることが書くという作業なのではないでしょうか。
その中に含まれているネガティブ要素も含めて、自分から一度切り離して客観的に見つめてみて、
「じゃあ自分は、一体どうしたいんだろう」
「これを感じる私とは、一体なんだろう」
と、もう一段階、深く掘り下げていく感じ。
それが他人に公開する前提で、文章を書くことの効用だと思います。
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これが喩えとして適切かどうかはわからないですが、自分の中からそうやって現れてきた「得体の知れないモンスター」と対峙し、今度は自分がそのモンスターの体内に入っていくような感じ。
日記だと、この時にネガティブな方向に引っ張られて終了してしまうことが多いです。つまり、そのモンスターに同化するか、逃げるかの二択が選ばれることが圧倒的に多い。
なぜなら、ネガティブなパワーはそれほどまでに強力だからです。
でも世間に公開前提だと、必ずそこから帰ってこなければならない。
「モンスターの体内はこんな感じでした」と冷静に分析して報告するような「義務」がそこに生じてくるわけです。
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この作業を繰り返していくと、自然とネガティブ要素が浄化されていき、目の前のモンスター(テーマ)から「悪いあの人、かわいそうな私」が切り離されて、そこから生まれた「これからどうしていきたいのか」だけが残っていく。(『幸せになる勇気』を参照)
このような過程を通じて得られる「私のこれからの行動や心構え」を宣言するように清書版を世間に公開していく。
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他人に宣言を共有するという既成事実さえ作り出してしまえば、あとは実行してやらざるを得ないですからね。
この一連の流れが、僕は「書くことの効用」だと思っています。
書きたいことがなんとなく漠然とはあるけれど、なぜかいつも書き始めると手が止まってしまうという方にとって、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
また、「世間」と「下書き」の間に、「クローズドなコミュニティ」を半オープンな場所として自分の中で設けてみると、より一層書きやすくなると思います。
このWasei Salonも、まさにそんな場所です。
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2022/05/11 11:30