社会的にマイノリティであるひとたちに対して、「自由に好きな立場を選べばいいよ。でも、私の中にあるヒエラルキー意識はそのまま」ってマジョリティ側のひとはすごく多いです。

だから、選ぶ権利やその立場は認めるけど、すごく見下しているって場合もありますし、その逆に過剰に敬うみたいなことも起きている。

これはどちらもヒエラルキー構造の産物です。

時代に合っていると思って「女尊男卑」を嬉々として語る地方のおじさん社長なんかは、とてもわかりやすい例です。

一部の過激派の人たちを除けば、マイノリティの人たちの社会運動は「わたしたちの権利を認めろ!」と主張しているのではなく「私たち人類全員の中にある無意識のヒエラルキー構造を解体して、フラットにしていきませんか」という提案なのだと思います。

そこに気づけるかどうかで、自分自身が真の当事者であり、加害者でもあり被害者でもあるということに自覚的になれるかどうかが定まる。

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この点、「祝いと呪いは表裏一体だ」とは本当によく言ったもので、現代において多くの場面において「言祝ぐ」ことは、ヒエラルキー構造に加担していることになります。

つまり、「昇進おめでとう!」と祝う行為は、同時に呪いを再生産している状態であるとも言えるわけです。

ピラミッド構造の階段を想定して、それを上に登れば「おめでとう」で、下に降れば「残念だったね」は、もう現代においては完全に誤りなのでしょう。

すべてを横の関係として捉えて、横にスライドしても、しなくても、どちらにおいても尊いと思えるかどうか。

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これは文化で考えると、より一層わかりやすいかと思います。

たとえば「YouTubeからテレビ」とか「noteから書籍」とか、その"出世"を言祝ぐことは、各文化の中に上下の優劣の関係を持ち込んでいることになってしまう。

本来、YouTuberはYouTuberのままで、noteユーザーはnoteユーザーのままで、完全で完璧な状態であるはずです。そこに優劣は存在しない。

それぞれがそれぞれの立場のままで、自己の矜持をまっとうすればいいわけですし、そこに引け目や負い目のようなものを感じる必要なんてまったくない。

表現活動としては、すべてが横並びで対等な文化なのだから、横に移動するのも、しないのも完全なる個人の自由のはずです。

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にもかかわらず、マスメディア文化で育ってきた僕らは、「ネット文化は下で、マスメディア文化のほうが上だ」というような価値観を未だに無意識のうちに抱え込んでしまっている。

だから、マスメディアに近づけば近づくほど、祝ってしまう。

これはメディアに限らず、伝統や権威あるもの(中央)が優れていて、新しいものが劣っているという価値判断。

それは、どれだけ経済的、社会的に成功してもロイヤルファミリーや天皇みたいな代々血筋のあるひとたちに近づこうとする歴史上の権力者たちと、発想はまったく一緒です。

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ここまでなんだか偉そうに書いている自分も、最近強く反省していることがあります。

それは、国家や町や村など「リアルコミュニティ」のほうが「オンラインコミュニティ」よりも、上位概念であると、なんとなく無意識の優劣意識が自分の中にあったなあということ。

それは、学校や大学に対してもそうかもしれません。

でも、やっぱりここにも優劣は存在しないはずで。オンラインサロンはオンラインサロンで唯一無二の文化ですし、しかも10個のサロンがあれば、10通りの答えがあるはずなんですよね。

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レヴィ=ストロースが『野生の思考』のなかで、未開の土地に暮らす人々を野蛮人であるとみなしている西欧人並びに西欧文化を強く自己批判したように、2022年現在、僕らの中にあるヒエラルキー意識は強く自己批判されるべき価値観なのだと思います。

中央集権型から、web3のような分散型の思考に変わりつつあるときに、いかにこの無意識のうちに根付いてしまっているヒエラルキー意識(中央やトップにに近づくほど優れている価値観)を解体していくことができるのか、これからの時代を生きるうえで非常に重要な概念になってくるかと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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