最近、以下の動画を拝見しました。


この中で、トークンエコノミーに関するお話、具体的には鈴木健さんが『なめらかな社会とその敵: PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』という本の中で提唱されている「PICSY」のお話が議論されていました。

有料の動画なので、あまり詳しい部分は書けないのですが、トークンエコノミーのような世界になると「みんなが将来のイチローに対して、ラーメンを売りたがる世界になるよね」という問題提起は非常に示唆深い内容だったなあと。

もちろん、今ならこれを大谷翔平さんと言い換えてもいいと思います。

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具体的には、誰もが将来的に成功していきそうなひとたちのトークンを我先にと欲しがり、実際に自分が売っている商品を、その未来の成功者のトークンと交換したがるような世の中になっていく。

そうやって、彼らのトークンをひとつでもゲットしようとするひとたちが増えることはもう間違いないかと思います。

このVoicyの文脈で言えば、NFTにおける「AL磨き」なんかはまさしくそうですよね。

東浩紀さんはそのような議論を踏まえて「客を選ぶと得をするという経済の設計の仕方は間違っていると思うよ」と語られていました。

僕も漠然とそう感じています。それは過去に何度もVoicyの中で、その警鐘を鳴らし続けてきたとおりです。

僕にとっては、割とディストピアな世界に向かっているなあと思いながら、その電車に自分自身が乗っている感覚がずーっとある。

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でも一方で、鈴木健さんが主張している「PICSY」も含めて、いわゆる「トークンエコノミー」が思い描いている未来像というのも、ものすごく大きなメリットがあるということもよく分かるのです。

というか、そのような社会にしない限り、いつまでたっても労働者が資本家になることができない。

そしてこれが、トークンエコノミーの大義名分だったりもします。

僕はその考え方にも、一方でとても強く賛同しているのです。

つまり、そうやってトークンエコノミーのようなものを、ちゃんと世の中に浸透させていかないと、この世界に存在する富裕層と労働者の格差は一向に縮まることはない、と。

なぜなら、世界の格差を一番の助長しているのは「資本」そのものだから、です。

その資本の配分構造を変えない限り、資本家がいつまでも富み続けて、労働者はいつまでも労働者であり続けることになることはもう間違いない。

ここで、わざわざピケティの数式なんかを持ち出すまでもなく、このブログを読んでいるみなさんであれば、それを体感的に理解していることだと思います。

そして、資本家たちは、この資本の仕組みを理解されないようにと、なるべく「パンとサーカス」で一般大衆を騙し続けようとします。

具体的には、酒やタバコ、ギャンブルやスマホなんかで一瞬の快楽を与え続けて、労働者に貯蓄させることなく浪費してもらうことが一番都合がよくなってしまう。

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でも一方で、その格差が生じる原因、それはお金や資本という仕組みの問題であって、そこに何か人間としての本質的な優劣や違いがあるわけではありません。

たまたま、その構造自体を理解しているか否かの違いでしかないわけですよね。

だから、格差を縮小したければ、労働者が労働をしている中で自然と資本を獲得することができるような機会さえつくってしまえばいい。

具体的には、ラーメン屋さんで労働者としてまっとうに働いていたら、偶然、未来の大谷翔平のようなひとにラーメンを提供する機会を得て、それがブロックチェーンのような技術によって未来永劫証明可能となること。

そうやって、まっとうに働くひとが、まっとうなかたちで「資本」、つまり成功者のトークンを得られるチャンスをトラストレスに構築しようとするのは、ものすごく健全な発想であり、正しい主張だと僕も思います。

自分が生きていて、何かしらの経済活動を続けているだけで、そのように資本が自然と溜まっていくようになっていることが、本当に理想的。

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そのような仕組みに変わっていけば、資本家と労働者の間の格差というのは、今よりも確実に縮むはずですからね。

もし仮に、過去20年間にトークンエコノミーのような仕組みがこの世の中に存在していたら、今ごろ大谷翔平さんの人生に関わってきたひとたち、具体的には学校の先生から、始めて彼にグローブを売ったスポーツ店の店員さんまで、その経済活動を通じて彼のトークンを獲得できていたひとたちは気づけば今ごろ、みんな資産家に大化けしているわけですから。

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でも、そのような成功事例がいくつか実際に生まれてきて、労働者たちが次第に賢くなってくると、間違いなく有名校のまわりにラーメン屋などが乱立する。

そして、将来の成功者たちのトークンと、自分の商品を必死で交換してもらおうとすることは間違いない。

逆に、ドヤ街のまわりからは、お店が一斉に撤退していくでしょう。

同じ商品を提供し、その瞬間は同じ対価を得られたとしても、将来のリターンにおいては富裕層が暮らす街と、ドヤ街とでは雲泥の差が生まれてしまいますからね。

だからこそ、同じ対価を支払っているのに、才能がない人間が集まる町の住民というのは、明らかに招かれざる客となる。

販売拒否はされないように法律が整ったとしても、イヤイヤ販売される世界が訪れることは間違いない。

少なくとも積極的に愛想よく対応されることはまずないでしょう。

もちろんこれは、貧民街の人間だけに限らず、未来のない高齢者だって同様だと思います。

これから大化けする可能性のない高齢者のトークンを手に入れたところで、販売者側には何のメリットもないですからね。

なんなら数年後に、そのトークンの価値がゼロになっている可能性だって高い。

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このような社会が、果たして良い社会なのか、本当に幸せな社会なのかはマジで今から真剣に考えたい。

人類は長い歴史の中で、そういった身分差別によって生じてきたさまざまな手痛い失敗の中で、そのような差別はできる限りなくす方向に法整備を進めて、同額のお金を持ってきたひとには等しく対応するようにと、法律に変えてきたわけなのですから。

でも、これは大事なことなので何度も繰り返しますが、これからは、全ての取引や消費が、トークンエコノミーとして「投資的」になっていくことはもう間違いないかと思います。

つまり、すべての取引が記録されて、全ての消費を投資に変えようという社会が必ずやってくる。

だって、それはすでに技術的に可能なわけだから。

また、さらに現代の特殊性は人々のコミュニティがドンドン多様化し、わかりあえないひととは、全くわかりあえないという体験をしているひとも一気に増えているため、その反動でいま多くのひとが猛烈に知り合いを「贔屓したい」と思い始めてしまっている。

具体的には「仲間」だとみなした相手や、同じコミュニティに所属しているひとを積極的に優遇したいと言うような。

それは、もちろん僕だって例外ではありません。赤の他人よりも、Wasei Salonメンバーのほうを優先したくなるのは、もはや人情です。

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このようにして、経済活動のかたちはこれから大きく変わっていき、命の選別や富や格差、その大変革が数年から数十年以内に始まっていくと思います。

そのための技術がすでに整ったわけなのだから。整った技術を人間が使わないわけがない。

それは今の生成系AIの技能を、その危うさをちゃんと考えることなく、誰もが我先にと使っているのと同様の話です。

市場自体が、大きくガラッと変わってしまう可能性を秘めている。

実際に、NFTの世界ではすでに始まっている変化でもあったります。

僕の予想では、1900年代の初頭、それが非常にキラキラして輝いているように見えた「全体主義」や「核爆弾」と同じように、大衆が熱狂して、その結果大失敗をして、人類の教訓になるという流れをたどっていく可能性は、非常に高いのかなあと感じています。

だからこそ、できる限り早めに自ら体験してみることで、自分の身体性を通してその変化を体感し、その危うさだったり、行く末だったりを、今から考えておきたいなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。