今の選挙関連の話題を眺めていて、一番強く感じてしまうズレみたいなものは一体何か。

それは、「正しいものが、報われないことは間違っている」という解釈であり、それを一度しっかりと改めないといけないのだろうなあと思っています。

なぜなら、選挙は、学校でも裁判の場でもないないわけですから。

誰もが「そんなのはわかっている」という話だとは思いながら、わかったうえでなお、今あらためてもう一度自分なりに考えて理解したい話だなと思ったので、この事実と向き合いたくて、今日はこのブログを書いてみます。

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この点、選挙がもう本当に単純に「票の奪い合い」になったということだと思います。

そして、そのような形で決まった結果においては、粛々と従うことになるというのが、選挙という仕組み。

その中で「あいつは道徳的にやばいんだ、あいつはスキャンダルがあるからやばいんだ」と何度言及してみたところで、でもその問題点とされるコト自体を、有権者自身が問題視をせずに、それでもその候補者に任せようとするなら、それは文字通り「民意」なわけなんですよね。

真偽がハッキリしないこと、情報の信憑性がどこまでもハッキリしなければ、そのハッキリしない中で決めていくのが選挙であり、民主主義の仕組みです。

そして、人々の中には既存の組織や制度に対する不満も強く渦巻いてたりもするわけです。

特に最近目立つのは、反エリート・反マスメディア感情であって、そこに様々な思惑を持つインフルエンサーが標的を定め、不満を抱える一般市民との結託が見事に生まれてきているわけですよね。

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このような状況下で、有権者は「ポピュリストに操られている」とか「フェイクニュースに騙されている」という指摘をどれだけしてみても、もはや意味を持たない。

それを理解しないといけないはずで。

なぜなら、繰り返しにはなりますが、選挙は「真理」を明らかにする裁判の場でもなければ、道徳的・倫理的に正しい人物を選出することが前提となっている仕組みでもないからです。

もちろん、僕自身も、選挙はより理性的で建設的な議論の場であるべきだと考えています。

しかし、それすらも今は、ひとつの「べき論」の意見に過ぎなくなってしまった現実があると思っています。

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ここでさらに厄介なのは、その判断基準となるはずである、情報の信憑性やフェイクニュースの審議さえも判断できず、信じたいものを信じざるを得なくなってきているのが、今のインターネットの情報空間の特殊性だということです。

究極的には、誰にもわからないわけですよね。

実際にその現場にいた当事者同士でさえ、同じ事実を見ながら別々解釈をするのが「真実の真の姿」という認識に変わりつつある。黒澤明監督の『羅生門』や是枝監督『怪物』のように。

そうなってくると、信じたい方向性をより一層強化するための欲しい情報を与えたほうが、選挙では勝てることになる。

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きっと、道徳的・倫理的な「正しさ」は、ある程度は全員が理解しているのだと思います。

もちろんその反対の「邪悪さ」も理解している。

でも、それでもなお、その正しさを取り戻そうとするとき、一番の障壁になっているのが、エリートやマスメディアの自分たちのほうが正しいという暗黙の序列意識や構造それ自体ということであって、その見下す感じが気に食わないんだろうなあと。

「シャンパンリベラル」という言葉が示すように、リベラルそれ自体というよりも、手に持っている、そのシャンパンのほうが気に食わない。

さらに厄介なことは、エリートのリベラルの見下し方というのは、自分たちは「巨人の肩の上に乗っている」と思っていて、そのような”高さ”から見下しているだけだから、この落差は許されるんだと思ってしまっていることだと思うのです。

とはいえ、丸の内の高層ビルだろうが、港区のタワマンだろうが、そして巨人の肩の上だろうが、高さは高さだし、その高みから見下している限りは、やっぱり信頼はしてもらえない。

今の世界的なうねりは「まずはその上から目線をやめてくれ」というのが民意だったということだと思うけれど、今のような選挙結果になればなるほど、「あいつらはネットの情報に騙されているだけで、野蛮な人間なんだ」となって、より相手が嫌がる方向性を強化することにつながって、そうなればなるほど分断も進み、余計に負のスパイラルにつながっていく状態だと思います。

過去に何度もご紹介してきた、吉本隆明の言葉、

「<知識>にとって最後の課題は、頂きを極めその頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそどんな種類の<知>にとっても最後の課題である」


この言葉がここに来て、さらに刺さる言葉だなあと思います。

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この点に関連して、先日のゲンロンカフェの配信内で東浩紀さんが語られていて、とても納得感のあったお話は、「公正さ」や「正しさ」の概念がインターネット以降は変わってきているんだというお話です。

マスメディアが恣意的に選んだものではなく、オープンに開かれた情報の中から公平に選べることが、公正さに変わってきている。

にも関わらず、自分たちが取捨選択して届けた話が、ちゃんと誤読や曲解なく聞き届けられているどうかが「正しさ」の基準になってしまっているのが、今のマスメディアである、と。

僕の意訳も含まれますが、インターネット以前には、その態度自体が国民の知る権利に資する「正しいこと」ではあったのかもしれないけれど、その情報の取捨選択を貫くことによって、余計に「公正さ」に欠いた言動のように、視聴者側からは見えてしまうということなんでしょうね。

特にインターネットに慣れてしまっているネットネイティブ世代からすると、その時代錯誤感が甚だしいということなんだと思います。

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で、最後に今ここにきて何が大きく変わっているいえば、

とはいえ、リベラルが語ってきた話というのは、それでもやっぱり政治的には正しかったわけです。まさに「ポリティカル・コレクトネス」だと思われていた。

だから、「いけすかない」と思っていても、その正しさに対して、ある程度は素直に従っていた。

巨人の肩の上から語っているから、その「後光」が指している感じです。

正直イラッとする部分もあったけれど「きっと大事なことを言っているんだろうな、巨人の肩の上に乗っているから、黙って聞いておいたほうが良いんだろうな、良薬口に苦しだし。」という推測が働いた。

でもメディアもリベラル側も、その構造に感謝をするのではなく、「誇り」を通り越して「驕り」になってしまっていた。『平家物語』の平安貴族や平家のように。

で、今回起きたことは「真実は見たい人間の数だけある」というポスト・トゥルースがインターネットの普及に寄って広がった結果として、もはや、その「政治的正しさ」も相対的に弱体化してしまい、堂々と批判やヘイトを語れるようになってしまった。

ここに、ベルリンの壁の崩壊ぐらいのインパクトあるなと僕は思う。

どれがもう真実か、政治的正しさかは、わからないという前提が生まれてきてしまったから。

もちろん、その中でもグラデーションはあるのだけれど、そんな微妙な違い、選挙の熱狂の中では通用しない。

短期間ではそれを検証さえできない。それよりも、選挙ではノリや機運が優先される。

逆に言うと、リベラルエリートやメディア側も、自分たちで自分たちの政治的正しさ、及びその特権性を自ら捨て去ってしまった結果にもつながってしまっていて、自業自得だなとも思います。

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何はともあれ、用法用量を守らないと、本当に恐ろしい結果も招き寄せてしまいかねないし、いついかなる時も、大衆の民意、より多くの人々が選んだ方向が「正解」になる仕組みが選挙という仕組みなのだと思います。

万が一、本当の真実、「神の視点」が知れたとしても「それは選挙の結果には関係がない」と思われているのが、今の選挙の実態なのだと強く感じる。

そんな時代を、いま僕らは目の当たりにしているのだと思います。

これを「民主主義の痛快さ」と呼ぶ人もいれば「民主主義の圧倒的なバグでもある」と感じる人もいる。

だから、これだけ色々な議論が巻き起こり、それぞれにズレた感覚を持ってしまうんだろうなあと思います。

この構造を理解したうえで、ひとりひとりが考えて、「わからない」なかでも、それでも考えて行動することがいま強く求められるということなんだろうなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているひとたちにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。