唐突なんですが、今のエリートやエスタブリッシュメントに対するヘイトの流れは、なんだか、『平家物語』の「平家の没落」を観ているような感覚になってきます。
このヘイトを、「非常に野蛮だな」と思いながら眺めているひともまだまだ多いとは思うのだけれど、今日の兵庫県都知事選挙の結果なんかを見てみても、意外とこのままひっくり返っていく可能性があるんじゃないか、今日はそんな話です。
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もちろん、僕も『平家物語』をすべて読んだことはありません。
あくまで大河ドラマ『平清盛』や「100分de名著」のテキストなどの知識程度です。
でも、皆さんご存知の冒頭部分「驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」が、まさに今を象徴しているような気がするんですよね。
この点、能楽師・安田登さんは『別冊NHK100分de名著 集中講義 平家物語 こうして時代は転換した』のなかで、この冒頭の文章に「おごれる人」という言葉が登場していることに、注目して欲しいと語ります。
「これが本講最大のキーワード「驕り」です」と。
じゃあ、なぜ、この点に対して注目を促すのか。
少し本書から引用してみたいと思います。
「驕り」に似ている言葉に「誇り」があります。
ともに「自分が優れていると思う気持ちを外に出すこと」を言いますが、「驕り」はさらに一歩進んで、それを「当然だと思う」ことを言います。「驕り」は、権力を持った者が没落していく、あるいは、組織が崩壊していくときのきっかけとなるものです。
「おごれる人」というと平家のことだけを指していると思いがちですが、『平家物語』の中で「おごれる人」として最初に登場するのは貴族たちです。
この話は、結構以外に感じるひとは多いのではないでしょうか。
平家だけでなく、平安貴族も「おごれる人」に含まれていた。
そして、まさにこの「おごり」みたいなものが、たぶん今のエリートやリベラル、そしてエスタブリッシュメントやシルバー民主主義の中にもきっとあって、それが今回の批判の対象になっているということなんだと思います。
逆に、これまでは圧倒的に怪しいとされてきたひとたち、邪悪な人たち、野蛮な人たちが、源氏側の坂東武士みたいになっているんだと思います。
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で、そんな平安貴族や平家と、源氏率いる坂東武士たちが戦ったのが「源平合戦」であって、実際の戦になってみたら「相手はただ頭良かっただけで、意外と戦には弱かった」みたいな話ですよね。
「平家にあらずんば人にあらず」というぐらいに特権的に振る舞っていたわけだから、平家に逆らうなんてあり得ないという時代の流れから、「あれ、もう平家を打倒してもいいのでは…?」という機運なんかにも繋がっていった。
まさにそんな雰囲気が、今の景色とも重なるなあと思うのです。
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で、現代は、そこにフリーランスや中小企業の経営者のひとびとも加勢をしている状況です。ここも現代の特殊性ですよね。特にコロナ以降にフリーランスの人々も急増してきている。
そうすると、ひっくり返ったほうが都合がいい、ぶっ壊れたほうが都合がいいという人々も増えてきた。
今回は、この「都合の良さ」もかなり効いていると思います。
これまでは、やっぱりまだまだエスタブリッシュメント側についていたほうが、自分としては有利だったひとが多かった。でも徐々にその勢力図が変わってきて、天秤が傾きつつある状態です。
たとえば、アメリカの「仮想通貨界隈とトランプ政権の蜜月関係」なんかの例はわかりやすいですが、そうやって次の技術にベッドしている人が世に増えて行くと、当然そっちに傾いたほうが都合がいい人たちも増えててきて、一気にひっくり返るタイミングがやってくるということなんでしょうね。
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あと、地味に見過ごせないのは、インターネットの「匿名文化」だと思います。
ここが意外と今の時代の特殊性でもある。
それはたぶん、内部に不満を抱え込んだ人たちが、かなりの数いるんだろうなあということです。
極端な話、そうやって社内で危機管理対応をしている人間が、実はネット上では直接ヘイトを促し、燃やしている側に加担している可能性なんかも大いにある。
つまり、社内の人間の内部告発に近い状態もかなり多いのではないか。省庁で働いていた官僚の人々、地方行政に携わっていた人たちもそうですよね。
「もともと中にいたけれど〜」みたいな話は、これからきっと無限に出てくる。
そうすると社内でもお互いに疑心暗鬼になって、チームワークもガタガタになって、その一枚岩が崩れつつあるということなんだろうなあと思います。
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つまり、これまでのエリート・インテリ批判にありがちな「弱者のルサンチマン」じゃなく単純に「あいつらが、この国を悪くしている」という認識に大きく変わってきている。
そして、それを変えてしまったほうが、都合が良いというポジションのひとたちも一定数を超えて増えてきた。
もちろん、そんな認識が広がれば広がるほど、立場を変える人達も増えてくるということなんでしょうね。ある種のネットワーク効果のように。
これまでの社会が平安貴族の「観念」や「概念」のような世界であり、リベラル的な価値観の世界だったとしたら、このような『平家物語』との類似性も、それほどズレていないような気がしています。
ちょうど、たまたま今年の大河ドラマは「平安貴族の物語」ですし。そしてなんだか評判も良い。
僕は観ていないので詳しくはわからないですが、この物語に共感するひとが多いということ自体が、現代が平安貴族社会に似ているということを、表しているようにも思います。
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で、安田登さんは、現代人が『平家物語』を読むときにもうひとつ意識したいキーワードがあると言います。それは「あわい」だと。
これも、平家物語的な変化を考えるうえで、非常に重要な観点だと思います。
このブログの中でも、過去に何度か安田登さんの「あわい」の概念については紹介してきました。
改めてここでもご紹介すると、安田さんは、あわいを語る際に「あわい」に似ている言葉、「あいだ(間)」と比較するとわかりやすいと語ります。
具体的には、「あいだ」は、AとBに挟まれた空間を言うのに対して「あわい」は「合う」を語源とし、AとBの重なるところ、交わった空間を言うのだと。
それを踏まえて、時代の変化についても、先程もご紹介した100分de名著のテキストから少し引用してみます。
変化にも「あわい」があります。ものごとの変化には、ゆるゆると変わっていく「 漸進 型」と、あるときに突然変化する「 跳躍 型」とがあり、もうひとつその中間型があります。外から見ると変化していないように見えるけれども、内側でゆるゆると変化が行われている。そして、それが飽和点に達したときに外見も突然変化する。それが中間型で、「 前 適応 型」の変化と言います。これが「あわい」の変化です。
(中略)
特に、大きな時代の変化は前適応型で変化します。前適応型の変化の時代を「あわい」の時代と呼ぶならば、『平家物語』が描く時代はまさに「あわい」の時代でした。
今も、何かがこのタイミングで、ガラッと変わったわけではない。
つまり、幕末や戦前・戦後のような黒船外圧による跳躍型ではない。もちろん、漸進型でもないと思います。なんなら、自分が生きている間は、もう一生変わらないかもと思っていたひとも多いはず。
すべてがこれまでとの「重なり」なんだけれども、ここに来て一気に変わってきている。本当に「あわい」的な変化が訪れているなあと思うわけです。
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とはいえ、渦中にいると、今は「あわい」なのかどうかはわからないと、安田さんは語ります。その判断がなかなかにむずかしい。
でも後から眺めると、明らかな変化が見て取れる、と。そうやって語り継がれてきたのが平家物語でもあるわけです。
実際、今も有象無象。何が邪悪で、何が正義かも判断が非常にむずかしい。本当に戦みたいな状況になりつつある。
でも、だとすれば、何かが一つズレればこのまま大きく変化してしまう。AIの可能性だって、まだまだ未知数ですからね。
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最後に蛇足ではありますが、この平安時代から鎌倉時代の変化が起きてくると、当時がまさにそうだったように、「鎌倉仏教の勃興」が始まっていくこともきっと間違いないわけです。
僕個人としては、こちらの変化に大きく期待したいし、ここに向けて淡々と準備していきたいなあとも思っています。
「概念」ではなく、より土着的に地に足のついたアーシーな思想の登場。それまでの、大学(比叡山延暦寺的なもの)ではなく、もっと平民に近づいたもの。
僕は、政治や経済の実権的な話よりも、こっちの思想や宗教性の変化のほうに、とても興味がある。
当時の鎌倉仏教のような機運に似たようなものも、すでに小さなコミュニティごとに生まれつつあるようにも思いますからね。そちらが今から楽しみで仕方がない。
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今日の話は、本当にあくまで直感的な話ではあるけれど、意外と今の反エリートの流れは、平安末期から鎌倉時代の幕開けに近いのではないか、という話でした。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。