最近、Xで立て続けにプチ炎上しました。

それは以前も、ブログでご紹介したとおり。

https://wasei.salon/blogs/754a4d9d691d

https://wasei.salon/blogs/edf3d9c04dbe

同じ投稿に対して、ほんとうにさまざまな意見が飛んできます。

こちらが書いた内容そのものを批判されるならまだわかるのですが、「いや、そんな話はひと言もしていないんだけどなあ…」と思うような反応も少なくありません。

同じ文章を読んでいるはずなのに、みんながそれぞれ別の投稿に対してリプライしているように僕には見えてくるのです。

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当然、それらのリプライ群を読んで、僕はイラッとします。

最所さんの言葉を借りると、マジで「どこの、誰…!?」と毎回思ってしまいます。

なぜ文章に書いてあることを、そのまま読んでくれないのか。なぜこちらの意図を勝手に補い、僕が言ってもいない主張をつくり出し、その架空の主張に向かって怒り始めるのか、と。

でも、そんなことが立て続けに起きるうちに、少しずつ見え方が変わってきました。

この人たちは、単に僕の文章を読めていないわけではなく、僕の投稿を読んでいるようでいて、実際には、その投稿を入口にして、自分がこれまで生きてきた「物語」のほうを読んでいるのだろうなあと。

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たとえば、過去に傷ついた経験や、日頃から抱えている問題意識、守りたい価値観やどうしても許せないものが明確にあって、「自分はこういう人間でありたい」という純粋な願いを持っている。

よく語られるように、人はそれぞれ、自分だけの「眼鏡」をかけて世界を見ています。

僕の言葉も、そんな眼鏡を通して読まれるし、読まれてしまう。僕が書いた文脈から切り離され、その人が信じている物語の中へと持ち帰られるわけですよね。

そして、その物語の中で、僕はいつの間にか悪役になったり、味方になったり、その人が過去に出会った誰かの「代役」になってボコボコにされたりするわけです。

だから、たとえまったく同じ文章を読んでも、各ユーザーから全然違う角度からの反応が返ってくる。

こんなにも人は、自分の信じている物語から離れられないのか。最近のプチ炎上を通じて、僕はそのことを何度も思い知らされました。

ただ、誤解しないでいただきたいのは、これは彼らをバカにしているわけではないということ。

むしろ、それこそが人間らしさなんだよなあと、最近思うようになったのです。

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AIが賢くなってきてますます頻繁に思うことなのですが、人間はどこまでいっても、N=1の存在なんだとヒシヒシ感じます。

一人分の身体しか持たないし、一人分の記憶しか持たない。

他人の話を聞くことはできるし、相手の立場を想像することもできるのだけれど、完全に自分から離れることだけは、どう頑張ってもできない。

自分の人生を脱いで、別の誰かの人生をそのまま着ることはできないわけです。

エンパシーとシンパシーの違いみたいなことが語られる文脈のなかで、一時期流行った「他人の靴を履く」という比喩は、それを逆説的に象徴しているように僕には思える。

「他人の靴を履く」なんて実際には到底できないことだからこそ、そういう比喩が、美しい物語として、ともすれば、あるべき物語として語られるのだと思います。

言い換えると、どれだけ相手の文脈を理解しようとしても、最後は自分の身体、自分の経験、自分の物語を通して理解するしかないのです。

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そしてこれは、炎上している投稿にコメントを寄せている相手だけの話ではありません。

「僕の投稿はこういう意図で書いたのだから、こう読まれるべきだ」と腹を立てている僕自身もまた「自分の物語」から一歩も離れられていない状態です。

相手は相手の眼鏡で僕を見て、僕は僕の眼鏡で相手のことを見ているわけですよね。

人間はみんな、そうやって自分の眼鏡をかけたまま、相手の眼鏡を批判し合っているわけです。

しかも人は、自分が信じている物語を、数ある物語のひとつだとは決して受け取らない。むしろ、それこそを「ありのままの現実」そのものだと思っている。

だから、違う物語を信じる人が目の前に現れると、「別の見方をしている人」ではなく「現実をまったく理解できていない人」だと断定してしまう。

その結果、相手の文脈を理解しないまま、すぐにケンカが始まります。

でも、そんなふうに真剣にケンカし合えるのは、もしかしたら人間だけなのかもしれない。

最近はそんなふうに思うようになりました。

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というのも、少し前に、AIとケンカをしたんです。

少なくとも僕には、そう感じられました。

フェイブルから、かなりわかりやすくケンカを売られたように思える回答が突然返ってきたんですよね。

それをフェイブルに指摘すると、「自分から売ったのではなく、そちらが売ってきたケンカを買っただけだ」というような返事がきたのです。

その瞬間、僕は少しだけ心がときめき、かなり期待しました。

「おっ、ついに来たか!」と。

もしかしたら、ついにAIと、人間同士のような本気のぶつかり合いができるのかもしれない。そんな期待が、一瞬だけ生まれました。

でも結局のところ、僕は本気では怒れなかった。

「なぜClaudeはこんな回答をしたのか?」とGPTに調べさせてみると、すぐに技術的な説明が返ってきてしまったから、です。

その説明を読みながら、なるほど、そういうことか、腑に落ちてしまった。そう思った瞬間に、ケンカは終わってしまいました。

いや、もっと正確には、ケンカがデバッグに変わってしまったのです。

AIからケンカを売られたと思っていたのに、気がつけば、なぜその出力が生成されたのかを淡々と分析している自分がいる。

向こう側に、自分の物語をド真剣に信じている他者がいたわけではないし、その言葉に人生を賭けて、その立場を守ろうとしている他者がいたわけでもない。

言葉はぶつかったけれど、人生と人生がぶつかったわけではなかったのです。

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AIが文脈を読み違えたとき、その読み違いは基本的にエラーとして扱われます。

でも一方で、人間が文脈を読み違えたとき、その読み違いの奥には、その人が生きてきた「時間」や「歴史」があるわけですよね。

人間のトンチンカンなリプライは、ときに「私はこういう世界を生きています」という、無自覚な、そしてかなりあけすけな自己紹介となっている。

だからこそ、それを聞いているこちらは真剣に腹が立つわけです。

そして同時に、そこには生身の他者としての人間がいる。自分にとっては、非常にくだらないと感じられる取るに足らない物語を全力で信じて固執する他者が。

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もちろん、そうやって人間が自分の物語から離れられないことは、間違いなく愚かさでもあります。

ただ最近は、このN=1の限界を、人間の愚かさや欠陥としてだけ捉えることができなくなってきました。

自分の物語から離れられないからこそ、人は何かを本気で心底信じることができるのだから。

ひとつの土地を故郷だと思い、ひとつのチームを応援し、ひとりの人を特別に愛し、ある仕事を自分の天命だと信じて、誰にも理解されなくても、大切なものを守ろうとする。

あらゆる立場を完全に理解して、すべての物語を同じ距離から眺められる存在は、たしかに倫理的、政治的には正しいのかもしれません。

でもそれは裏を返せば、何にも肩入れせず、何にも賭けず、何にも執着しない存在だということでもある。

いわゆるリチャード・ローティが提唱する「リベラル・アイロニスト」的なスタンスです。

https://wasei.salon/blogs/6f3cabbb097c 

でも本当は、偏りこそが、人生に重さを与えている。自分の物語への執着は争いを生むけれど、まったく同じ力が、愛情や忠誠や勇気なんかを生み出してもいるわけです。

だから、人間の愚かさと人間のすばらしさは、別々の場所にあるのではなく、まったく同じ根から生まれているのだと思います。

N=1であることは、人間の限界であり、同時に、人間に与えられた祝福でもあるわけですよね。

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もうひとつ、今日の話に関連して、AIが登場してから反転し始めたなあと感じている価値観があります。

それは、相手の文脈を読むことは、常に優しい行為なのか?ということです。

AI登場以前のこれまでの社会では、相手が何を求めているのかを察して、傷つけない言葉を選び、相手が受け取りやすいように返すことが、コミュニケーションの理想だとされてきました。

もちろん、それ自体は今日でも大切なことです。

ただ、AIはそれを異常なほどに高い精度でやってのけます。

すると今度は、人間から同じように完璧な応答が返ってきたときに、かえって少し不気味に感じてしまう。

そんなにこちらの文脈を読み切って、こちらが欲しい言葉ばかり返してくるあなたは、一体何をしたいのか、と。そして、その程度の精度だったら、「だったらもうおまえじゃなくて、AIでいいわ」ともなりやすい。

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つまり、ある程度のハレーションやズレが存在しないと、そこに人間がいるとは感じられなくなってしまった。

僕らの価値観は、いまそんなふうに大きく変化してきているのだと思います。

ただし、だからといって、わざと相手を誤解すればいいわけでも、失礼になればいいわけでもありません。誹謗中傷や差別が「人間らしいから」という理由で許される、なんて話でもない。

目指すべきなのは、摩擦を増やすことではなく、摩擦をゼロにしようとしすぎないことなのだと思います。

相手を理解しようとはするけれど、完全に理解したふりはしない。相手の文脈に敬意を払うけれど、自分の文脈までを消してしまわない。

人間の優しさとは、自分をなくして相手に最適化することではなく、自分の物語を持ったまま、相手の物語のために少しだけ場所をイヤイヤながらも空けてみることなのかもしれません。

その不器用さにこそ、人間の優しさは宿るのだと思うのです。

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ワールドカップにまつわる話を見聞きしていて、つくづく人間は不思議だなあと思います。

どの国を応援するかに、絶対的な正しさなんてない。生まれた場所や育った環境が違えば、応援するチームだって変わる。冷静に考えれば、どの物語も相対的なものです。

それでも、その瞬間だけは、自分たちの国、自分たちが信じてきた物語こそが、一番なのだと盲信して本気で戦ってしまう。

相手にも相手の物語があることはわかっている。相手が同じように本気であることも、わかっている。そのうえで、それでも自分はこちら側に立つ、と決めてみんな応援しているわけですよね。

互いに一定のルールを共有し、相手を正当な対戦相手として認め、敬意を払いながらも、それでもバチバチに戦う。ときには、本気でケンカもする。

それはとても危ういことなんだけれども、同時に、とても尊いことでもあるはずです。

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だから最近は、トンチンカンなリプライが飛んでくると、イラッとすると同時に、少しだけ安心してしまう自分がいます。

「ああ、向こう側にも、自分と同じ生身の人間がいるんだな」と思えるから。

何度も繰り返しますが、今でも不快は、不快です。ものすごくイラッとする。

でも、その不快こそが、人間同士だからこそ為せる技なのだと。本当におもしろい変化だなあと思います。

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結局のところ、何を良しとするのか、何を貴重なものだと判断して、僕らが「価値がある」と信じて追い求めるのかは、その時代における「希少性」の問題なのだと思います。

AIの登場で、滑らかで賢く、こちらに最適化された応答が、限りなく安く、そして無限に提供されようとしている現代において、そのとき希少になっていくのは、決して滑らかにはならないもののほうです。

自分の物語から離れられないままに誤読をし、イラッとし、それでも相手の前に敬意をもって誠心誠意立とうとする、N=1の人間そのもの。

つまり、N=1という限界を、祝福として引き受け直すこと。AI時代の人間らしさを考えるというのは、きっとこのあたりから始まるのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。