仕事やプライベート問わず、タスク的なことが辛くなってきて、ゲリラ的なことを渇望しているという話を最近よく耳にします。

どうしても僕らは、楽しさをやおもしろさを判断する基準は、その行動の内容や質に大きな要因があると思いがち。

でも、本当はそうじゃないのかもしれません。

むしろ、その企画の盛り上がりや携わる人々の動機や気持ちのあり方、その企画が実行されるまでの期間の長さなどに要因がある。

今日はそんな話について、少しだけ考えてみようかなと。

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これは、何度もこのブログでも書いてきた「トムソーヤの冒険に描かれているペンキ塗りの話」にも近い。

具体的には、携わる当事者の心持ちがいちばん重要であって、全く同じような行動であっても、時には「罰」となり、時には最高に楽しい「遊び」にもなる可能性を秘めているというお話です。

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社会人の方であれば、それぞれの仕事の現場を振り返ってみても、似たようなことは思い当たるのではないでしょうか。

どれだけ辛い作業だっとしても、「今一緒にパパッと片付けてしまいますか!」とゲリラ的に整理した仕事は、全く辛くなく、むしろ楽しかったりする。

一方で、全く同じ作業でも、それがタスク化されて「月末までにやってきてください」と義務化されると、ドンドン重荷になってきて辛くなる…。

一人で抱え込む辛さや、足枷がドンドン増えていくような感覚もあるのかもしれません。

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これは仕事に限らず、楽しみにしている飲み会のような場面であってもそう。

その計画が長引き、開催時期も先送りになっていくと、行くのがどんどん億劫になったり、面倒になってきたりする。

一方で、「今夜、空いている?」から始まるゲリラ的な飲み会は、意外にも想像以上に楽しかったりします。

本当に大事なことは、人と人とのコミュニケーションの中に生まれる盛り上がりや、その熱量の高まりなど、偶発性の方なのかもしれません。

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ただ、今のコロナ禍では「安心安全」が必要以上にもとめられてしまっているため、何事にもおいてもタスク化される傾向にある。

具体的には、実行までの期間が長くなり、精査しなければいけない内容も増えてきて、楽しさよりも辛さのほうが増してくる。

その時間経過の長さが賛否両論もドンドン引き寄せてしまうことにもなりかねません。

いま開催されているオリンピックなどを見ていても、それは強く感じるところでしょう。

この否応なしに何事もタスク化される日々が、人々を苦しめてしまっているのではないかと推測します。

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「安心安全」を求めて、計画を積み重ねていけばいくほど、同じ行動だったとしても、そこからゲリラ的な楽しさや喜びは失われていく。

気運が高まり、熱量が最高潮のなかでゲリラ的に行われることが、いかに僕らにとって重要だったのか。

人間の「いまここ」を楽しむ心が、そこにこそ存在していたのかもしれません。

すぐにゲリラ的な行動を増やすことは難しくても、「何が私たちにとって不要不急だったのか」という議論から生まれた再発見と同様に、

「何が私たちにとってゲリラ的な楽しみだったのか」を考えるきっかけにしていきたい気付きであり発見でした。