なんでも自由に挑戦できる私たちが、オリンピックの代表選手を観てうらやましく感じたり、憧れたりするのは、よくよく考えると不思議なことです。

なぜなら彼らは、日々厳しいトレーニングや規律を守り続けなければならないから。

つまり、私たちに比べてものすごく自由が制限されている存在と言えます。

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ではなぜ、自由を制限されている彼らに対して、僕らは自分たち以上の「自由」を感じてしまうのでしょうか。

その理由は、彼らが自己の人生における優先順位を明確に定めているからだと思います。

言い換えれば、貪欲に金メダルを狙うオリンピック選手たちほど、正しく諦めたひとたちはいない。

そして、この優先順位を定めることが現代においてとっても難しいことなのです。

今日はそんなお話について少しだけ考えてみたいなと。

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思うに、僕ら人間の欲望には際限がありません。

どれだけ社会的に成功しているようなひとであっても、自己の中の優先順位を定めなければ、自由を求めて必ず煩悶します。

「あっちも気になるし、こっちも気になる」と右往左往し続けてしまう。

それぐらい私たちの欲望というのは、際限なく無限に膨れ上がっていきます。

そして、その無限の欲望(自由を求める心)こそが、私たちを悩ませる原因となるわけですよね。

でも、現状のオリンピック代表選手たちは、この煩悶が存在しない。(少なくとも現状においては)

彼らにとって「競技で結果を出すこと」が、現状の最優先事項となっているからです。

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では、私たち一般人がこの自由の煩悶から逃れるためにはどうすればいいのでしょうか。

この時のわかれ道は大きく分けてふたつです。

ひとつは、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』でも主張したように、自由に生きることに伴う重圧や不安に耐えかねて、自らの自由を放棄してしまうこと。

そのかわり、他者が考える善悪の基準や、イデオロギーに対して積極的に賛同していく。

右往左往し続けるぐらいだったら、他者が決めた優先順位に従ってしまったほうが楽ですからね。

しかし、それが全体主義を招いてしまったことは、歴史が証明するところです。

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もう一つの道は、自分の意志で自己の優先順位を定めて、規律を設け、その規律に従って粛々と行動すること。

そして、その規律から逸脱してしまうことは素直に諦め、手放していく。

自分の時間やお金、行動範囲の有限性を素直に認めていくのです。

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どんなステージにいる人間であっても、これは決して変わることのない人生法則だと僕は思います。

そして、ここがとっても大事なことなのですが、この自己が定めた規律(ルーティンや個人的な儀式など)を守り続けられることが唯一、本当の「自信」につながっていく。

他人から見るとものすごく窮屈そうな暮らしであっても、より自己が自由になっていく感覚が得られるのです。

それは今のオリンピック選手たちを見ても、一目瞭然かと思います。

「自由」の本当の意味を見誤らないようにしたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。