「こんな私になりたい」

そんなイメージの中に存在する私(アイデンティティ)と結びつけて人間が消費するようになった結果、衣食住どの分野においても、大量生産・大量消費という世界が生まれました。

これは、「もっともっと!」という人間の際限のない欲望が生み出した世界です。

一方、その反動として現在声高に叫ばれているのがサスティナブル消費。

しかし、結局のところ、このサスティナブル消費も大量生産、大量消費と同じようにアイデンティティ消費のひとつだと僕は思っています。

「こんな私になりたい」というアイデンティティが「ギルティフリーの商品を使っている私、環境や地球に優しい商品を使っている私」に変化しただけ。

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僕ら人間の本当の過ちは、等身大の自己の「欲求」を飛び越えて、「こんな私になりたい」という「欲望」と消費を結びつけてしまったことだと思います。

これは、「食欲」にたとえると非常にわかりやすい。

食欲も、ただの「食欲」として捉えていた間は何の問題もなかった。適切な量を、適切な形で消費していたはず。

だけど、僕らはいつの間にか食に対する「欲求」を「欲望」と取り違えて、その欲望を満たすように食べ始めた。(もしくは「欲望」ゆえに食べるのをやめた)

等身大の私に必要な量ではなく、イメージの中に存在する私にとって相応しい量があるはずだと誤解して、そのイメージの中の私の「欲望」を満たすためだけに食べ始めた。

それが行き過ぎた結果、過食症や拒食症のような症状を招いてしまうのでしょう。

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だからこそ、肝心なことはどちらか一方に振り切るのではなく、消費を自己のアイデンティティに紐付けないこと。

ただただ、ひとりの等身大の人間として(物質としての人間として)消費できる範囲で消費すればいい。

アイデンティティに紐付けだ瞬間、現実の私とは乖離した、イメージの中に存在する空想の「私」が生まれてきて、それが際限のない拡大もしくは縮小を招くのだから。

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これは、イメージとしての「空想の私」を描き出せる人間だからこそ犯す過ちなのだと思います。

動物が時に残酷に見えて、時に無欲に見えるのも、きっとそのため。

彼らは決して、自己のアイデンティティに紐付けて行動しない。あくまでも自己の食欲、繁殖意欲に粛々と従っているだけ。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉が示す通り、どちらかのイメージに振り切った瞬間、内容いかんに問わず、それはイデオロギー化してしまう。

僕らが生まれてくるまえに、この世界で行われていた社会主義革命もきっとそう。

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繰り返しますが、大切なことは粛々と等身大の自己としての消費を行うこと。

極端な豪華絢爛を目指すわけでもなく、極端な質素倹約を目指すわけでもない。

ものすごくおかしな話をしているという自覚はありますが、今とても大切なことだと思います。