今日は昨日の続きのような内容です。
昨日のブログの中では、今の若者が本当に心から飢えているもの、それは「世界から、呼びかけられたい」という願望である、というお話を書きました。
それがちょうどいまのPodcastがブームになっている現象、その理由としても見事に説明がつくなと思ったので、今日はそんなお話をこのブログの中に書いてみたいと思います。
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この点、最近読み終えた新書『カウンターエリート』という本の中で、今回のアメリカ大統領選でPodcastがどれだけ影響を与えたのか、という文脈において「パラソーシャル」という概念が解説されていました。
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「なぜ今、これほどまでに“音声”が求められているのか?」とも絡む点だと思うので、パラソーシャルとは何かについて、まずは少し本書から引用してみます。
現在起こっているポッドキャストの革命は、これまでのメディアよりも”パラソーシャル"であり、人々に政治家のキャラクター費を促している。
パラソーシャルとは「一方的な親密関係」を意味しており、会ったことがない著名人やインフルエンサーに友情を感じることを指す。(中略)耳元で、カジュアルな会話を覗き見出来るような感覚を持つポッドキャストは、パラソーシャルな世界のなかでますます重要性を増しており、それらは伝統的な報道機関の編集部よりも信頼を獲得しつつある。
ここで語られているお話は、アメリカ国内の話ではあるけれど、日本国内においても、似たようなことはすでに起きていて、とても納得感のあるお話だなあと思いました。
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で、Podcastや音声配信コンテンツというのは、まさに「世界からあなたに直接呼びかけられる声」にもなる。
配信者の意図としては、実際にはそうじゃなかったとしても、受け取る側のリスナーがそう感じやすいメディアであるということです。
当然、そこでは、明らかにこれまでのマスメディアやテキストコンテンツなどとは異なり、エンゲージメントが高くて、如実に結果も出てしまうわけだから、配信者側もそれをドンドンと利用していく。
そして、気づけば、それをハックしてアメリカ大統領選まで操作できるし、現実とは異なる別「セカイ」までつくることができるようになるということですね。
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もちろん、ありとあらゆる最近の株式や仮想通貨、トークンまわりの市場操作なんかもそう。
この蜜月関係が、今世の中のありとあらゆる問題を起こしているなあと思います。
「世界から呼びかけられたい」と喉から手が出るほどに渇望感を抱えている現代人と、そのひとたちに向けて、情報を耳元で直接、長時間囁くことができるPodcastのような音声配信の相性の良さ。
もちろん、名前を読み上げることができるyoutubeのようなライブ配信の相性が良すぎるし、ハックしたい人たちにとっては、本当にたまらないメディア環境なんだろうなと思います。
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そして、最終的には「あなたが、呼びかけたんじゃないですか?」という話にもなる。それはちょうど、カラマーゾフの兄弟に出てくるスメルジャコフのように。
その最たる例が、前々回のアメリカ大統領選のあとに起きたトランプが先導した襲撃事件なんかがまさにそうだなと思います。
上下関係や接触形式がどうであれ、片方向の「憧れ」と「解釈」の飛躍は、いつの時代も起こり得るということなんでしょうね。
発信者は自分自身の影響力を過小評価しがちで(というか、過小評価されても許されるから「そんなつもりで言ってない!」としらばっくれることもできて)一方で受け手側は「自分だけは特別で呼ばれている」と感じやすい。
また、これは極端な例かもしれませんが、もしかしたら自爆テロや、ジハードなんかもこの枠組みに含まれてしまうのかもしれない。
実際には「神の声」が聞こえず、呼ばれていないと自覚しているからこそ、呼ばれているという事実を捏造したくて、そこまで過激な行動にも走ってしまうジレンマみたいなものもきっと存在するんだろうなあと。
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また、地方移住のトレンドと関連して、都会ではどれだけ能動的にコミットしてみようとしてみても、あまり呼ばれている感覚がないことなんかにも、見事につながるような気がしています。
そこには「私である必然性が一切存在しないから」なんでしょうね。いくらでも変わりが存在する、交換可能性をまざまざと見せつけられる。
経済合理性だけを追求すれば取替可能であることが、何よりも合理的ですからね。
「あなたにこそ、お願いしたい」という世界からの呼びかけがある状態というのは、消費者やリスナーに対しては効果的であっても、なるべく組織や仕組みの中では排除したほうがいいという論理になってしまいます。
都市において、生産性や合理性こそが大切であれば、リスナーや消費者に向けては「あなたにこそ受け取って欲しい」と言いながら、組織内はいつだってやすい労働力に置き換えることが可能であるほうが合理的ですからね。
その際たるが、今まさにAIによって労働者がガラッと置き換えられそうになっていることに象徴されているわけです。
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じゃあ、このあたりで気になるのは、昔はこのあたりの「呼ばれている感覚」を何で担保していたかということだと思います。
どうやってそれぞれの人間の「世界から呼ばれたい」という欲求を個々人に対して、提供していたのか。
これは養老孟司さんの『人生の壁』の中で語られていた、家族主義の話がわかりやすかったなあと思います。
以下本書をから少し引用してみたいと思います。
「個性」のない人にとって、尊重されるべき「個」とは何になってくるのでしょう。家制度というものは、実はそれをある意味で保障する制度だったわけです。たとえば長男に対しては「家を継ぐ立場の者」という役割を持たせていました。これがその人の個性にもなるのです。
今日まで続いてきた先祖代々の流れがあり、次代につないでいかなければならない、そのために自分には役割がある、ということです。一般市民も皇室もこの点では同じです。
そういう役割を社会や制度が強制的に与えてきた。強制なので当然、反発もあるのですが、そういう制度が個の安定にもつながっていたわけです。長男には長男のアイデンティティが与えられてきた。
家父長制のような厄介さはあれど、それでも「この血を引いているこの私」が呼びかけられているという実感があったのは確かだと思います。
この家の血を引き継いでしまっているほかでもないこの私に対して、呼びかけられているという強い実感があったはずなのです。
だからそれが余計にうざったくもあり、面倒くさくもあり、世界からの呼びかけとして、良くも悪くも強烈な呼びかけになるというしがらみが、そこに存在したのだと思います。
でも、養老さんもこのあとの文章に続いて書かれているように、戦後の日本では、家制度を否定したのでこの種の安定性は喪われていきました。
そして、戦後の社会では考える物差しのかなりを「合理的か否か」に単純化してしまった。
合理的かどうかで考えれば、長男が家を継ぐのは合理的とは言えない。そもそも家を維持するということ自体も合理的とは言い切れなくなるから、廃止せざるを得ない。結果として、人と人とのつながりがなくなった、個がバラバラになった。
「それは当たり前で、みんながバラバラになる社会を作るように、世の中全体で進んできたのです。」と養老さんは書かれていましたが、本当にそうなんだろうなあと思います。
これは、逆に言えば、いま若い人が田舎に憧れる理由や、家族主義的なものに若い人たちが憧れる理由なんかもきっと、このあたりに帰結するんじゃないかと思います。
合理的で都会的な生活なんかよりもよっぽど、小さな世界(セカイ)から呼ばれるほうが私にとっては圧倒的に豊かで、幸福な暮らしであるというふうに感じられるからということなのでしょうね。
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ここまでの話をまとめると、生産性と合理性を追求するあまり、そして自由と平等を主張するあまりに、誰もが世界から呼びかけられない存在となり、なおかつ個々人がバラバラになってしまったのがまさに今。
そして誰もが小さな「セカイ」から呼ばれたくて、オタク活動や推し活、コミュニティ活動を勤しんでいる。
もし、全員が何かしらの形で「世界からの呼びかけが存在する状態」をつくりだすためには、また家族という最小単位、そんなそれぞれの小さな世界やコミュニティからの呼びかけ、他でもないあなたこそが大切なんだ、という声がなければ成立し得ない。
すべてが資本主義にそって合理化されていく世の中、そしてAIで労働力の大半が代替可能な世の中においては、もう一度家族を復権させる以外に、その方法はないんじゃないかとさえ思う。
とはいえ、現代において、もう古めかしい家族主義の復権なんて、ほぼほぼ不可能。
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さてどうしたもんか。こればかりは本当にわからないなあと思います。
これはあくまで自衛手段の話でしかないですが、発信者側には、そうやって扇動しない矜持を持つこと、受信者側には「複数の声に触れる・批判的読解を養う」ということが大切になってくるのでしょうね。
そしてコミュニティをつくる人間においては「冷たく抱き寄せて、あたたかく突き放す」という相矛盾する行為を行い続けるということなんだろうなあと思います。
小さな疑似世界に執着をさせずに、大きな世界の中で、自分自身の道を歩むことを丁寧に促していく。励ましながら、勇気づけしていく。それがきっとあたたかく突き放すということの意味合いなんだろうなあと感じています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。