最近、社会学者・大澤真幸さんの新刊『西洋近代の罪    自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか』を読みました。

書籍名からはまったく想像がつかないと思うのだけれど、この本に書かれてあった映画『君たちはどう生きるか』の考察が、凄まじく良かったです。

数え切れないくらいのこの映画にまつわる考察を観たり読んだりしてきたけれど、この内容がいちばん腑に落ち、「だからか!だから”君たちはどう生きるか”なのか…!すごい!」って本当に強く膝を打ちました。

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ただ、今日はそのお話ではなく、その前段部分で語られていた「セカイ系」にまつわるお話をご紹介したいと思います。

本書で語られていた問いは「なぜ、日本の若者たちは、政治運動のような“現実”にはコミットせず、セカイ系にハマるのか?」という問いでした。

この問いの結論が、コミュニティ活動なんかにも見事に通じる内容だと思ったので、このブログでもご紹介しつつ、私見も合わせて書いてみたいなあと。

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まず、大澤さんはセカイ系を前提に、世界を救済する使命を持った主人公を描こうとすると、必然的に超能力や異界が出てくる非現実的なファンタジーになるけれど、そこに描かれる“セカイ”は、現実の<世界>とは繋がっていないと語ります。

その理由というのは、若い人たちの中にも世界に貢献したいという願望はあるけれど、自分が<世界>に影響を与えられる存在だとは思えない。

だから、そんな<世界>からは、完全に切断された虚構のセカイを作りだし、その中で代理的に願望を満たすのだと。

こうしてセカイ系の物語は生まれているんだと語られてあり、僕は非常に強い納得感を感じてしまいました。

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で、ここでさらに面白いのは、それでもセカイ系作品が、現実の風景をやたらと写実的に描く点だと語るのです。

例えば、新海誠監督の『君の名は。』や『天気の子』そして『すずめの戸締まり』などは非常にわかりやすい。あの駅、この階段、とファンが聖地巡礼できてしまうくらいに細かく再現されている。

でも、それらのリアルな描写は物語の本筋にはほとんど関係がないわけですよね。

それでも作者もファンも、その現実の断片にこだわる。なぜなら、それはセカイが<世界>の代理物だからだと大澤さんは語ります。
 
これは「本当は、世界に繋がりたい」という欲望の裏返しであり、その痕跡であるのだと。だからファンは、その現実の痕跡を探しに聖地巡礼にも向かってしまうのだと。

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で、この仮説がそのまま日本人がなぜ市民運動などにコミットしないのか、という問いの答えにもつながっていきます。

大澤さんは、この歪みそれ自体が「私は、世界から呼びかけられない」という感覚を生み出しているというのです。

この話は、言われてみればものすごく腑に落ちるお話。

さらに、ここで登場してくるのが、過去に何度もご紹介したことのある大澤真幸さんの造語である「アイロニカルな没入」という概念です。


具体的には「これが世界の全部じゃないことは十分にわかっている、でも、ここを私の世界にする」このアイロニカルなねじれを受け入れながら、作品の中に没入していく。

本当の<世界>から呼びかけられる感覚を得られないからこそ、自分が直接的なつながりを覚える小さなテーマだけに絞った、自分だけの「世界」として作り出してしまうわけです。

これはセカイ系のアニメに限らず、オタク的な世界、具体的には自分の好きな主題領域(たとえばラーメン、鉄道、アニメ、アイドルなど)が、あたかも世界の全てであるかのように扱われていくことにも関連する。

そして、その意図的に狭められた世界の主催者からから、イベントや新商品など、この私に呼びかけられるから、更にコミットメントしたくなる。

本書の中でもラーメンオタクの例が出ていて、ラーメンオタクは美味しいラーメンについての噂を聞けば、一日を潰してその店に行くのも、まったく苦痛ではない。お気に入りのラーメンを食べるためなら、何時間でも行列に並ぼうとする。そうすることで、「ラーメン界は私を呼んでいる、私を求めている」と実感できるのだと。

つまり、今の若者は、世界から呼びかけられたいと思っているということですよね。

でも現実の世界からは、呼びかけられることはない。

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そして、僕が思うのはアニメやオタク、アイドルなんかの推し活にとどまらず、オンラインコミュニティや対話ブーム、地方移住が流行っているのも、すべてこれで説明がつくなと思ったのです。

グローバル社会や東京から、呼びかけられないとわかった途端、自ら世界を意図的に縮減させることによって小さな「世界」から呼びかけられる空間を能動的につくりだしている。

地方移住で、まちづくりに対する手触り感や世界に触れている感覚にこだわる言説なんかも、ここにポイントがあると思います。

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そして、この話は最近繰り返し語ってきた、社会にとっての「事実」と、私にとっての「真実」の話にも見事にリンクしてくるのです。

本書の中では、それらが「知」と「真実」の区分で語られていたけれど、まったく同じことを言っているなと思いました。

ここは本書から少し引用してみたいと思います。

オタクが「世界」に関して認識していることがらは、客観的に見れば、「知」である。それは、一種のデータベースのようなものだからである。しかし、オタク自身にとっては、その知は「真実」の輝きをもったものとして感受される。なぜなら、オタクである私は、その知、その情報を愛しているからだ。つまり、その知に、私の主体的なコミットメントが書き込まれているのを感じるからだ。客観的には「知」であるものが、オタクの主観においては「真実」になる。


まさにこれは、客観的な「事実」と、主観的な私にとっての「真実」の話を語ってくれているなあと思います。

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で、僕が思うのは、この現実としての大きな世界ではなく、小さな世界を希求する状態というのは、もう避けがたいことだとも一方で思うのです。

それぐらい今の世の中は複雑で、コミットメントするような余白を持たないから。何が本当で、何が嘘かもわからない。

そこで政治的活動をしようと思ってみたところで、何か陰謀論に巻き込まれているのではないかと疑いも消えない。そして自分の力なんかで、世界が変わるわけがないと、半分諦めムードなんかも存在する。

そして、世界の側からも私のことを呼んではくれない。

だから、意図的に世界を縮減させて、オタク的な小さな世界に入り込もうとしてしまうし、それは避けがたいこと。

でも、同時にその小さな世界を、世界だと思わないで欲しいなと、僕なんかは思うんです。

言い換えると、もう一度、立ち上がる勇気を持って欲しい。実寸台の世界に対して、再びコミットし直す姿勢、それを励ましたいなと僕は思うんですよね。

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これは別の視点から眺めてみると、いま間違いなく「世界から呼ばれていない」という不安や不満が若い人の中にはある。

だからこそ、ほかでもないこの私が世界から呼ばれている感覚を、喉から手が出るほどに欲している。

そして、ビジネスマンたちも、ここが一番金になるとわかっている。これこそが現代人が抱く真の意味で渇望しているニーズであると明確に熟知している。

だから、ありとあらゆる擬似的な小さな世界をつくりだして、そこに執着するように仕向けている。

それはちょうど、映画版『ピノキオ』の遊びの島「プレジャー・アイランド」みたいに、です。でも、それに夢中になってしまうと、気づけばあの島に閉じ込められた子どもたちみたいにロバになってしまう。

それがなければ、生きていけないというような薬物中毒者状態になってしまうわけです。

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この点、過去に何度もご紹介してきた話だけれど、やっぱり「別の世界」や「あわい」へ行ったら、必ずちゃんと戻ってこないのはダメなんですよね。

ジブリの鈴木敏夫さんは『君の名は。』は、あわいに行ったきりで戻ってこない物語だったと、ラジオの中で強烈に批判していたというお話も、過去に何度もご紹介しましたが、ここが本当に大切だと思います。

ちゃんと行って戻って来ること。現実の世界に戻ることの意味や価値を改めて認識したい。

現代では、世界は縮減しないと、生の実感が得られないというのは間違いなくそうなんだけれども、でも、それもあくまで「世界」と向き合うための、一時的な非難場所であって欲しい。

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だから、Wasei Salonのメンバーのみなさんにも、Wasei Salonの中にずっと入り浸って欲しくはないなと思います。

ここでは、必ず他のメンバー、つまり世界から呼びかけられるから。むしろそうなるように、設計している。

あなたがたとえどんな人間であれ、敬意と配慮と親切心、そして少しの礼儀さえ持ち合わせてくれていれば、呼びかけられる世界が、このクローズドコミュニティです。

でも、それゆえに、ここは決して、長居し続ける場所じゃない。

「喫茶去精神」を強調する理由も、ここにある。



「ここはあなたの居場所です、お茶を飲んで、どうぞくつろいでください。」と「ここはあなたの居場所ではない。お茶を飲んで即刻立ち去れ」は両立し得るし、むしろ両立しなければならない。

そうやって、縮減された世界で擬似的に呼びかけられたことで、身体知として実感を再確認して、自分の本当の直感力を取り戻すことが、この場の目的なのだから。

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言い換えれば、そのための一時的な世界の縮減は許されるけれど、その小さな世界に対してアディクトしてしまい、執着してしまうことはよろしくない。

ましてや、それこそが世界だと思い込むのは僕は完全に間違っていると思う。

あくまでここは洞窟の中であり、物語が語られる場所。

他者の物語を聞いて、自分の物語をおずおずと語り、そうやって勇気づけられるための場所。

日が昇れば、ちゃんと洞窟からは出ないといけない。それは5万年前から続く人類の物語を語るときのルールそのものだと思います。

Wasei Salonは「行って参ります」と「おかえりなさい」が循環していることが大事だと語り続けてきましたが、まさにこのあたりにその理由があるなあと思います。

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「私が、世界から呼ばれていない」という苦悩が世に蔓延しているようないまのような時代だからこそ、一度受け入れたうえで、またしっかりと現実の大きな世界へと送り返したい。

これからの世の中でコンテンツ、コミュニティ、宗教など、世界とは異なる取り扱い可能な「小さな世界」や「物語」を作り出そうとする人間には、この矜持が強く求められているんだと思います。

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最後に、僕がこの本でものすごく面白いなと思うのは『君たちはどう生きるか』は、「呼ばれているにも関わらず、世界から選ばれること、呼ばれることを拒否する物語である」という話につながっていくことです。

この話がとってもおもしろい!

でも、それをここで話し始めると長くなってしまうので、今日はここでおしまいにしておきます。

近いうちにまたブログでご紹介する可能性は高いとは思いつつも、気になる方はぜひ直接本書を手にとってみて欲しいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

追伸:続きを書きました。