最近、AIファーストにシフトする企業が話題です。

先日も語学学習アプリ大手の「Duolingo」が、社員に一斉送信した「AIファースト宣言」のメールが話題になっていました。


何が一番むずかしいかって、この一斉メールの内容がそれを象徴しているなと思いますが、AI最適化を全力で行わされる社員たちは、結果的に自分たちで自分たちの首締めることになるんですよね。

「AIを使えることになることによって、あなた達(現社員)の仕事は楽になりますよ」というのは見かけだけで、大半の社員は自分たちこそが会社にとって不要な存在になるために、会社のAI最適化させられる業務に終始させられることになる。

あのメールの中でも「解雇しないこと」を余計に強調していることが、それを如実にあらわしてしまっているよなあと思います。

この利益相反みたいな状態を、これからどう舵取りしていくのか、それがめちゃくちゃむずかしい課題だろうなあと思います。

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この点、僕自身は、AIを積極的に活用する側の人間です。けれども、それでもやっぱりWasei Salonは決して「AIファースト」にはしたくない。

AI推進派とAI懐疑派、そのどちらの立場の人がいてもいいですし、多様な観点を持ち寄って、問い続ける場でありたいなと思っています。

AIファーストに振り切る人間だけでは、絶対に気付けないことがあることは間違いなくありますからね。

それよりも、このような問い自体を「問い続ける」ことが好きなひとに集まって欲しい。

そして、そんな姿勢に共感してくれる「知的”運動神経”」のようなものが鋭いひとたちと一緒にありたいなあと思う。

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この点、最近読み終えた『伝授! 哲学の極意: 本質から考えるとはどういうことか』という本がとってもおもしろかったです。

ご紹介したいお話は山ほどあれど、今日の内容に関連して「本質観取(哲学対話)に直感的に優れたひとはどんなひとか?」のお話をご紹介したい。

おふたり曰く、哲学の知識が豊富だということと、哲学的な思考の感度があることとは、全くの別物であると書かれていました。

哲学書を山ほど読んでいて、哲学概念をあれこれ使えるけど本質観取が下手な人もいれば、哲学の知識がさほどなくても、哲学の考え方の感度が、はじめから身についているなと思える人もいる。

で、本質観取の感度のある人は、ひとことでいえば「自分の生活のありようを常に深く聡明に経験する力のある人」だと語られてありました。

具体的には、自分の考えを絶対化するのはやめて、他の人の考えをよく聞いて、その中心動機がどこにあり、またどこで意見の違いや対立が起こるのかについて深く考えるという思考ができるひと。

それは、他人の言葉をよく聴き取る「よい耳」と、自分の感じたことを飾らずによい表現で語る「よい口」と両方を同時にもっている必要がある。

「それって日常の人間関係の中で人が聡明であることの基本ですよね」とも語られてあり、本当に深く共感するお話でした。

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ただ、一般的には、何かグループや集団、組織をつくろうとすると参加希望者が持っている知識やスキル、そしてそれを証明する学歴や資格ばかりに注目してひとを集めてしまいがち。

でも本来、高学歴であるかどうか、高度なスキルを身に着けているかどうか、そんなことはどうでもよいはずで。

普段の知的態度というか、知的”運動神経”みたいなものが鋭いことのほうが、よっぽど個人的には重要なんだと思います。

それは学歴とはまったく関係ないし、何か専門性に秀でているとかとも関係がない。

で、そのような態度がきっと村上春樹風にいえば「運転はあまりうまくないけれど、注意深く耳を澄ませるひと」という意味になる。


で、それがつまり世に言う「素直」という言葉の真の正体のような気もしています。

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もうこれからの時代は、比喩的な意味での”運転だけが上手な人”を集めてはいけないのだと思います。

それをやるから、こういう混迷の時代になると、見事にバッティングをしてしまう。そのスキル自体が短いスパンで一気にコモディティ化してしまうわけですから。

知識やスキルで繋がらないということの重要性はここにあって、これから本当に大事なことは、どうやって我々は共に居続けることができるのか、それを考えられる人であることな気がしています。

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いま、みんなが悩んでいるAIとの距離感なんかもまさにそうで、現状において正解はない。

僕はAIが出てきてから、本当に真剣に色々と考えましたが、現状到達したひとつの結論としては、もう人間同士の関係性にしか未来はないと感じます。

人間関係、そこに積み重なる歴史だけ。それだけが唯一無二かつ、代替可能性がないもの。

お金でさえ、仮想通貨やトークンのように錬金術のように、いくらでもハックして鋳造することができてしまう世の中です。

でも、「◯年間、わらわれは互いを尊重し、お互いに敬意を持って共にいた」ということは、AIがどれだけ進化しても、あとからどれだけ頑張っても捏造できないし、捲れない事実。

当然、お金を出して購入できるようなものでもありません。「愛と尊敬はお金を出しても買えない
」というあの話と全く一緒です。

もちろん、だからコミュニティを閉じていくという話ではなく、今いる人たちと共に、新しい人たちを迎え入れながら、どうやってその輪(環・和)を広げていけるか、が何よりも重要になると思うんですよね。

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でも、世の中の流れとしては残念ながら、その真逆がこれから進行していくわけです。

なぜなら、今の世間のひとびとの大半が知識やスキル、学歴や資格のもとに集い合い、現状はイヤイヤ他人と一緒に居続けてきたわけですから。

具体的には、会社で生産性を高めるためイヤイヤ仕事をしていたり、学校で学ぶためイヤイヤ同じクラスにいたり、地域で暮らすためなんかもそう。

そして、AIの進化によって、そういうひとたちとやっと共にいずに済むのがこれからだとしたら、より多くの人たちが、一斉に面倒な人間関係を切っていくことになるのは、目に見えている。

というか、すでにそれは始まっていますよね。

そうやって、これまでかろうじて共にいたひとたちとの関係性を排除していきながら、せいせいしたと思うわけですよね。

当然、新しい出会いだって広がっていかない。すべてAIがやってくれる。もうわざわざ新しい人に勇気を出して、会いに行く必要性もない。

緊張したり、相手を不機嫌にして嫌われるんじゃないかという不安を抱えて、新しい人に出会いに行く人なんかは稀であって、AIで代替できるなら、AIで代替してしまおうとなる。

余計に新たな人とは出会いは少なくなるはずです。

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でも、そうやって繰り返してみた結果、いざ蓋を開けたら、自分のまわりが全員人間らしい振る舞いをするAIだけだった、という絵に描いたディストピアになりかねない。

すべてが本物の人間とと見分けがつかないぐらいに精巧なAIで、お金にも何もかも不自由がない暮らしをしていても、まわりに生身の人間だけがいないという状態は十分にありえるだろうなあと思います。

もしくは、人はいたとしても、とっかえひっかえしてきた最近出会った人たちばかりで、そこには歴史や記憶、思い出を共有している人たちが誰ひとりいないということにもなりかねない。

そして、そんなひととは誰も一緒にいたいとは思わなくなる。

今では大した価値を持たなかったかもしれないけれど、長い付き合いを続けているということが、クレジットヒストリーのようなものとして、評価し合う世の中にもなっていると思います。

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だとすれば、今いる人たちとどうやって共に居続けるのか。

それを、AIという新しい道具を用いてなんとか試行錯誤し、実行していくことが何よりも大事なんだろうなあと思います。

言い換えれば、AIに違和感があるひとたちでさえも、AIを用いて包摂をしていくこと。

少なくとも、せっかくこれからの一番の財産になる人間関係を、こんなチンケな道具のためだけに切り捨ててしまうのは、本当にもったいない。

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なによりこの問い自体が、実際、地域も国家も、そして世界の究極の問いにも尽きるのだから。

そして結局、巡り巡って、それがWasei Salonの「Wasei」に込められている意味を、実直に行っているにすぎないなとも思っています。

名は体を表す、は本当にそのとおりで。ともすれば、僕が毎日書いているブログというのは、その訂正可能性のような行為をひたすらにやり続けているだけとも言える。

何をどう再解釈して、何をどうやって新たな物語として提示していけば、僕らはこれからも変わらずに全員が共に居られるのかということを、ひたすらにやり続けているのが僕の日課です。(今書いているこのブログなんかもまさにそう)

ドンドンと「Wasei」の名前に引っ張られている。でもそれでいいと思いますし、本当にありがたい仕事をさせてもらっているなあと思います。

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これからの未来、企業は、AIファーストに振り切らないなんて選択はあり得ない。上場企業など利益や合理性が求められる集団であれば、なおのことだと思います。

冒頭の語学学習アプリ「Duolingo」の話も、僕も同じ立場なら、同じメールを社員全員に送っていると思います。

そして、社員たちには大変申し訳ないけれど、将来的には、自分たちで自分たちの首を切るためのような労働に従事させざるを得ない。

でも、コミュニティ運営においては、それを追求する必要は全くない。今いるメンバーをトコトン大切にすることに振り切ることができる。

たまたま偶然ではあるけれど、これは本当にありがたいことです。

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だとすれば、まずは2年後の10年の節目、そしてそこから20年、30年、50年と今一緒にいるひとたちと、どうやって共に居続けることができるのかを考えたい。

Wasei Salonという場は、最新技術を活かしながらも、最後に大切にしたいものが“関係性”であるという立場を、どこまでも愚直に守り続けたいと思っています。

そのためにも現状維持に甘んじることなく、常に変化し続けなければいけない。コミュニティの仕組みや設計、そして思想や倫理の再設計もAI時代に合わせて、ひたすらに”手入れ”をし続けていきたいなあと思います。

そして、いつの世の中においても、普遍的な価値を持つ「素直で、注意深く耳を澄ますひとたち」と共にいられる場を、淡々と耕していきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。