今日は、昨日の話の続きであり、昨日のお話をひっくり返したような視点からのお話を書いてみたいなと思います。



「その取組は何にも重要じゃない。だからこっちを手伝って」と言われたときに、ソロ修行を行っているひとたちは、このひとは、こんなにも重要な「思想」を否定した(批判した)というふうに捉えてしまいがちです。

そんなふうに、ソロ修行者の多くにとっては、批判の矢印がまさか自分に向いているとは思わず、その背後にある、より大きなものに向けられたと思うんですよね。

そして、だからこそ、そのような軽薄な認識を”罰する正義”が、わたしにはあるんだと思い込んですぐに臨戦態勢に入ってしまう。

でも、目の前の相手は決して、その思想や学問の内容それ自体を批判しているわけじゃないんですよね。

あくまで、そのソロ修行者にありがちな「鼻持ちならない優越感」を否定しただけであって、あくまで批判の対象は「個人」であるわけです。

でも、そこでソロ修行者が意固地になって歯向かってくるから、そもそも論として対抗するために、思想の確からしさにおいても、お互いに腕をまくって参戦してしまうというようなかたちが、その実体なんだと思います。

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でも、批判をされた側は、それに没頭していればいるほど、実体をこのようには捉えないわけです。

思想やイデオロギーと自らが完全に一体化してしまうというのは、つまりはそういうことだと思います。

私へ向けられた矢印を、私の背後にあるものを否定しているように捉えてしまうフシが必ずある。

それは、自らが夢中になっていればいるほどそうなります。

「私を否定しているということは、私が信奉しているこの信仰も批判しているんだ、けしからん」となってしまうわけです。

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そもそも、何か自らにおいて実存的な不安があるからこそ、ひとは宗教や学問、イデオロギーや思想、国家などなど、何か自分よりも圧倒的な大きなものに同化しようとする。

つまり、自己を自己たらしめるために対象にすがっているんだから、私だけを切り離して、批判の対象に自らを晒すなんてことはできない。

戦場を描いた映画なんかでよく描かれがちな「上官を批判することは、国家や天皇に楯突くことと一緒だぞ!」みたいな話なんかと、まったく一緒なわけです。

そして、そのような現場って、現代のSNS上でも本当に頻繁に目にするかと思います。SDGsに関連する項目においては、特にそうだなあと。

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今日のこの話をもっと、わかりやすく言えば、たとえば北海道出身で、北海道のことを散々PRしているひとがいるとします。

で、そのひとのが「何が何でも日本一の観光地は北海道だ!」と主張してまわっていたとする。

そんな人に対して、北海道のことは大好きだけど、おまえの北海道論は気に食わない、みたいなことは本当によくある話だと思うのです。

にも関わらず、そういう批判的なまなざしを直接本人に向けると、そのひとはすぐに、北海道が批判された!と勘違いをするわけです。

「おい、このひとは北海道が嫌いらしいぞ!みんなどう思う!?」と、他の北海道愛好者に一斉に呼びかけて、集中砲火を浴びせようとしてくる。

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これは、喩え話として極端にわかりやすくしてしまった例だけれども、自分が何かを代表していると自負している人間は、その権威を笠に着るような形で、かならずこのような無双状態に入ってしまうんですよね。

かなりちゃんと意識して、自らのことをメタ視点しない限り必ずこうなってしまいがちだなあと僕は思います。

世の中において、自分が信奉している事柄が重要だと思えば思うほど、一心同体のような感覚に陥ってしまいがちだからですから。

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一方で、僕らは同時に、このような状況において、自らがソロ修行者を批判する側として直面したときに、躊躇なんかもしてしまうわけです。

このひとを否定するということは、このひとの背後にあるものを否定することにつながってしまわないだろうか…?というふうに。

先ほどの戦場の例に戻ると、「上官を批判することは、天皇陛下に背くことにつながるんじゃないか」と、真剣に悩んでしまうわけですよね。

それだけの知識や経験、権利のようなものが私にはあるだろうか…?と、逡巡する。そこで、ちょっとした後ろめたさも感じてしまう。

北海道の例だと、さすがに北海道の魅力を発信しているこのひとを批判したら、北海道嫌いだと思われてしまわないかと不安になる。

北海道が心から好きであればあるほど、そのような誤解を招くような発言は避けたいと願うはずです。

そして、何かモヤモヤとしながらも、あのひとの言っていること、信じていることはきっと正しいんだろうなと思いながらグッと飲み込んでしまう。

でも、そこはスパッと切り分けることができるはずなんです。

思想や対象の魅力を提唱している人間と、その思想や対象そのものは決して同一ではない。

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で、なぜ、こんなことを改めてこんなにもこの場でくどくどと強調しているのかと言えば、今後はこの問題がより一層加速し、至るところで散見されるようになる思うからです。

なぜなら、現代は「好きなことで生きていく」的な話も完全に頭打ちをして、AIも出てきて、ありとあらゆる創作物を、誰でも簡単につくれるようになっていくからです。

それはもう本当に、数年単位の時間の問題です。

そうなってくると、AIではつくれないもの、つまり「時間」の経過を必要とする、歴史や思想、コミュニティや街など、どれだけお金を積んだところで人間にもAIにも絶対につくりだせないものに、価値が移り変わっていくことは間違いない。

つまり、今後はより一層、歴史や思想、宗教など、そんな一朝一夕ではつくれないものの権威を笠に着るような人間が、世の中に無限に現れるわけです。

Web3文脈も完全にその予兆です。より大きなものに自分を同化することができる(そのコミュニティに参加することで、自分もそのコミュニティの威光を享受することができる)それこそが、コミュニティがもたらそうとしている変革でもあるわけですから。

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そして、僕は、そのような態度というのは、これからの時代において正攻法だと思うので、虎の威を借りるようなこと自体は決して否定はしません。

むしろ推奨したいぐらいです。

でも、だからこそ、そのコミュニティや思想に所属しているからと言って、その人間が言っていることは歴史や思想、そのコミュニティを代表しているわけでは決してないということは、常に頭の片隅においておきたいことでもあります。

それはきっと、そのようなコミュニティの創設者であってもそうだと思います。

たとえば、若干文脈は異なりますが、現在の天皇が言っていることや、岸田首相が言っていることが、日本の総意ではないことと、まったく同じ論理です。あくまで、僕らほかの日本人と同様に、それは彼らの意見、でしかない。

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最後に、真面目な人ほど、このことに対して負い目や引け目を感じるはず。

でもそういうときほど、真実をあるがままに見つめて決して混同しないこと。

そして、きっとこれを読んでいるあなた自身も、何かしらの「時間」でしか生み出せない権威を用いることになるはず。

そのときに、同化しすぎてしまわないこと。安易に「◯◯の専門家」にならないほうがいいなと僕が思うのは、このあたりにもあります。

専門家は、いつの時代も常に「ソロ学習者」になりがちで、『大衆の反逆』を書いたオルテガのいうところの「慢心した坊っちゃん」みたいな存在になってしまうから。

これからの社会変化の中で、この構造に自覚的であることは非常に重要なことだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。