先日、NHKのクローズアップ現代で放送されていた「さまよう繁殖引退犬 ペット業界の“異変”を追う」という回を観ました。

内容としては、繁殖用に飼育され、子犬を産み続けた後に「繁殖引退犬」として行き場を失う10万頭以上の犬たちの実態について報じられていました。

詳しくはぜひ、番組本編をNHKオンデマンドなどで観て欲しいのですが、ペットを取り巻く環境、特に繁殖業界の倫理と管理について、その実態に多くの疑問を投げかけてくるような内容でした。

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果たしてこれが真実なのかどうかは、僕にはわからない。自ら取材したこともないので、たぶんメディアの偏見も含まれていると思います。

ただこの番組を観ながら、僕が思ったのは、なんだか「人間の業」のすべてが詰まっている内容だなあと感じたんですよね。

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もちろん、この番組を観て短絡的に「ペットビジネスけしからん!」とか、ペットを飼うことを、肯定も否定もしたくないなあと思ってしまいます。

じゃあ、最終的に自分が観終えて、一番強く何を思ったのかと言えば「せめてちゃんと弔ってあげて欲しいな」ということでした。

そして、そのような自分のこころの着地するポイントを見て、「あー、これか」と思ったんですよね。ひとが、弔いに向かう気持ちっていうのは。

宗教が最終的には葬式に向かった意味合いみたいなもの、その片鱗を少しだけ垣間見れた気がします。もっというと、自分の中でそのベクトルが腑に落ちた感覚です。

人間の業が深い話、その善悪とか、その争い自体に加担も否定もしないけれど、せめて弔いだけがそこにあって欲しいと願う気持ちみたいなものには、まったく嘘がなく、自然と立ちあらわれてくるものだなと。

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この点、私憤だけなく、義憤みたいなものを自らの中に立ち上げて、実際に巨悪と戦ってくださっている方々がいることも事実だと思います。

もちろんそれは本当に尊い行為だけれども、とはいえ、また似たようなことは繰り返す。

それはこのペットビジネスに限らず、ありとあらゆる業種において言えることだと思います。つまり、この業は何度も何度も果てしなく繰り返すんだろうなあと、思ってしまったんですよね。

決して、今に始まったことではないし、未来永劫なくなることでもない。

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『平家物語』の「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり」じゃないですが、そのような無常観に近い。

そして、最近、このような感覚を感じる機会が、なんだか非常に多くなりました。

力技でどうにかしてみようとしたところで、限界があるというか、力技でどうにかできそうだと僕ら人間側が思わされているだけであって、ガラスの天井やガラスの壁がそこに存在しているような。

ここには、生成AIの登場もきっとかなり大きいのかなと思います。

なぜなら、今後はそのような人類の無限ループが、これまでにはないスピード感で高速回転し始めるだろうからです。

平家物語のような物語が、これまでは平安時代から鎌倉時代というような一つの時代を股にかけて行われていたような内容であっても、これからはもっともっと、高速再生されるようになる。

何度も何度もそれに直面させられるような感覚といえばわかりやすいでしょうか。まさに、行き着くところまで行き着くよね、というイメージです。

それを人間の力で、どうこうできるという思い込み、そこに期待してしまうことのほうが何か大きなものを見誤るような感じが僕にはしてしまう。

これはたぶん、虚無主義やニヒリズムとかそういう感覚でもない。

人によってはここまで読んできて、「虚無主義的な感情に鳥井は陥っているだけだ!」と思うかもしれないのですが、それとは全く似て非なるものだと個人的には思っています。

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きっと、松尾芭蕉の「夏草や    兵どもが    夢の跡」のような気持ちにも近いものではないかと思います。

つまり、なんというか、もっと穏やかな感情や感覚に近いわけです。無常観として、あるがままを、まさに如実知見した結果、立ちあらわれてきている感覚という実感のほうが近い。

むしろ、だからこそ「抜苦与楽」ではないけれども、そこで生まれる苦しみを”弔って”いきたいと願ってしまう。その気持だけは決して嘘じゃない言えるなと。

自分の目のまえで様々な苦しみが生まれ、犠牲となり、それが無限ループする。そのことに対してまったく力及ばない感じがして、ありとあらゆるものに対して、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

だけれども、唯一「弔い」だけが、それでも自分ができることの一つとして、いちばん地に足がついているような気がするのです。それこそが、本当の意味での受け皿として機能するというか、次につながるような気がしているのです。

本当に、こればかりは上手く言葉では言えないのだけれども。

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そして、僕からすると、一昨年公開された新海誠監督の『すずめの戸締まり』なんかも、まさにそのような映画だったと感じています。

あの映画の内容も、日本全国の廃墟や、すでに使われなくなった施設を弔って、日本中を巡る内容でした。

つまり、僕からすると、ここでいう弔いとは「生命」において、だけではない。

もっともっと、大きな縁起に対して、です。ありとあらゆる人間の業から生まれてくる縁起に対して、真摯に弔いたいという気持ち。

で、その弔いを通じたときに初めて、人間のなかに立ちあらわれてくる気付きや発見、そのほうが実は、真の意味で、人間を成長させてくれるのではないか。

それはきっと哲学者・東浩紀さん「訂正可能性」のような話にも近くて。

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弔いの場における、振り返りとして、過去を懐かしむ感情や言葉としての語りのようなものは、実はむしろ新たな未来を紡ぎ出す「語り」だったりもする。

つまり、弔うように振り返ったときにこそ、見えてくる「次」があるような気がしています。

単に故人やペットを悼む行為を超えて、生きとし生けるものへの敬意と配慮、そして存在のはかなさへの認識を深める手段として、非常に重要なことであって、さらにその先が存在しているというような。

だから、今は漠然と弔いとは何かを本気で考えたくなっている。

もちろん、平家物語のような「無常観」を感じ取ったうえで、その人類の無限ループを認知しつつも、それが未来永劫繰り返すならば「さらばもう一度!」というような、ニーチェの超人的な解釈もありえるんだろうけれども、でも僕はもっともっと違う「何か」もあるんじゃないかと思うのです。

つまり、この輪廻からの解脱は、意外と「弔い」こそが「始まり」であり、スタートなんじゃないかと思います。

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なにゆえ、弔いなんかで救われて、そこから解脱できると仮説できるのかも、イマイチ自分のなかでもよくわかっていないのだけれども、今は素直にそう感じているというお話でした。

もちろん、弔いのビジネスを始めたいとかそういうわけでも決してない。

ただ、この感覚は個人的にはものすごく新しい発見であり、これまでには感じたことがなかった感覚だったので、今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。