先日ご紹介した魚川祐司さんと僧侶のプラユキ・ナラテボーの対談本『悟らなくたって、いいじゃないか』が非常におもしろかったので、今度はまた同じく魚川祐司さんと、僧侶・藤田一照さんの対談本『感じて、ゆるす仏教』読み始めています。

このおふたりの対談のなかに出てくる「ソロ修行」の落とし穴の話が本当におもしろかったです。

今日はこのお話を少しご紹介しつつ、僕の見解も合わせて書いてみようかなと。

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一般的に、仏教の修行者は、どうしても何か高尚な修行をしているとやっている本人は思いがちです。

それが、結果的に周囲には鼻持ちならない優越感を振りまいてしまうというお話が本書の中では語られていました。

そして、これは仏教修行者に限らず、何かに没頭している人間は必ず陥ってしまう落とし穴だなと思ったのです。

さっそく本書から、少しだけ引用してみたいと思います。以下はすべて、僧侶の藤田一照さんの発言になります。

ソロの修行って、どうしても独りよがりになりがちなんですよ。自分は人のできない特別なことをやってる、だから偉いんだっていう、鼻持ちならない優越感みたいなものが知らず知らずのうちに芽生えてくることが多い。だから僕は、一生懸命修行している人をけなすつもりは毛頭ないけど、「厳しい戒律を守って修行してます!」というポーズをとる人に多く見られるなんとなくの違和感は、微細な独りよがりから来るものではないかと思いますね。ナルシシズムと言ってもいい。「俺は特別なことをやっている、特別な人間だ。見て、見て、すごい修行でしょう!」みたいな、スピリチュアル・ナルシシズム。


この藤田一照さんのお話に対して、魚川さんは「ガンバリズムのよくないところというのは、やりきれればやりきれるほど、そのナルシシズムが強くなるんですよ」とおっしゃられていましたが、本当にそのとおりなんですよね。

この書籍は、東大ご出身のおふたりの対談であって、仏教の修行とともに、「学問」の話もいくつか語られているのですが、宗教に限らず勉強や学問、スポーツにおいても、まさにこのような構造に陥りがちだなと思います。

あとは、とにかく権威(中心)側に近づけば近づくほど、そのようなナルシシズムは強力になっていく。

たとえば、国家の官僚なども自分の仕事は高尚で重要な仕事だと完全に信じ込んでいて、その結果として家庭は蔑ろにしがち、みたいな話なんかも、とてもよく似ているかと思います。

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でも、これは当然のことなんですが、そこに「優劣」なんて最初から一切存在しないんですよね。

すべては対等です。対等だと思っていないのは、自分だけ。

藤田一照さんは、自らが若かりし頃、子育てをしている最中に奥さまから「早く切り上げて自分の部屋に行きたいんでしょ」とか「こんなことより、坐禅の方が高級なことだって思ってない?」と突っ込まれてしまい、それが図星でタジタジだったというお話を笑い話のように語られていましたが、奥さまのこのご意見は、非常にまっとうなご指摘だと思います。

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で、この話のやっかいなところは、ひとりの人間が、地位や名誉、肩書や外見、もしくは持っているお金など、そういった外的な要因ではないものとして、自らの自信を身につけるためには、必ず「ソロ修行」が必要な過程なんですよね。

具体的には、「自分で決めたことを、自分のちからでやりきること」が人の成長においては本当に何よりも大切なんです。

だからこそ、このような没頭や集中力を保ちつつ、何よりもその事柄の修行や練習、勉学を最優先する状態は、必ず通過する必要がある。

つまり、ガンバリズムは、人間の成長に必要不可欠であって、そのようにガンバリズムを発揮するためには「これこそが世界において、いちばん重要なことなんだ…!」という気概で取り組むべきなんですよね。

そんな圧倒的な”誤った思い込み”でもしない限り、人間は寝ても覚めても何かひとつのことに没頭して、取り組み続けるなんてことはなかなかできませんから。

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そうやって、無我夢中で取り組んで、自分との約束を、本当の意味で守れるようになると(結果を出すと)、それに取り組む前の自分には持ち合わせていなかった内側からの静かな自信が立ちあらわれてくる。

なんだけれども、今度はその自信が逆に、ナルシシズムにつながってしまうというジレンマが存在するわけです。

周囲に存在する人々は、いつだってそちらを優先されてしまうわけですから(ときに自分との約束も簡単に反故にされる)、周囲の人達からは、鼻持ちならない優越感を振りまいているひとだと思われてしまって、ものすごく感じの悪い印象を、周囲の人達にも与えてしまうわけです。

そんな落とし穴が、このソロ修行やソロ学習、ガンバリズムの中にはまちがいなく存在しているのかなと思います。

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つまり「自分はこれだけのことをやっているんだから、この程度のことは許されてもいいよね?」という雰囲気が必ずその言動や態度から滲み出てしまう。

でも、そのように振る舞われた側、言われた側はどう感じるのか?    それをよくよく考えてみないといけない。

繰り返しますが、そこに優劣なんて最初から存在しないわけですから。

優劣が存在してると思っているのは、自分が勝手にそう信じ込んでいるだけであって、藤田一照さんの奥さまのように、他人からは「しらんがな」っていう話なんですよね。

今、この瞬間における共同作業である事柄を一方的に投げ出された、としか思わない。

特に、仏教みたいなジャンルにおける修行なんて、仏教に興味がない人間が傍から見たら、それの何が重要かなんてまったくわからない。

「ただ座っているだけじゃねえか、だったらこっちを手伝えよ!」と思ってしまうのも当然のことだと思います。

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そこで丁寧に、自らが取り組んでいることの重要性や、自らが最優先で取り組む理由を説明してみたところで「それは、おまえの内在的論理に過ぎないだろ」と、議論が平行線を辿るに決まっています。

それぐらい、みんな自分の観たい物語だけを観ながら生きてしまっています。良くも悪くも。その最たるが、むしろ仏教修行者、なんだと僕は思います。

だからこそ、大切なことは、修行を通じて「自分はやればできる」と内なる自信を身につけると同時に、人間関係を大切にする。周囲の人々に対して敬意と配慮と親切心を常に持ち合わせて、優しく接することは、ちゃんとスパッと切り分けて、しっかりと峻別する必要がある。

これは、宗教の修行におけるスピリチュアル・ナルシシズムにかぎらず、学問や仕事(特に、弱者救済的なイデオロギーやボランティア活動など、高尚な仕事だと一般的に思われがちの場合)も、まったく同様です。

自分のなかでの優劣をつけることと、相手に対してその優劣の基準を強いることはまったくの別物であって、その優先順位を他者に決して押し付けないこと。

自らにとっての優先順位を明確にしつつも、常に相手の基準において行動するひとが本当の優しさの持ち主だと思います。

それができないなら、最初から高尚なものなんかに手を出してはいけない。

その程度の身勝手な認識で、修行したり学問に取り組んでみたりしたところで、何の意味もないかと僕は思います。

誰でも何かに思いっきり夢中になると、必ずこの落とし穴にハマる可能性があると思ったので、今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。