Wasei Salonなどで読書会を開催したり、他者と書籍について語り合う機会を繰り返したりする中で、本当によく思うことがあります。

それが「間違っているかもしれないけれど…」とか「こんな意見は適切ではないかもしれないけれど…」とエクスキューズが入るなあということ。

読書会のような個人の感想や意見を語り合うという前提のような場であっても、このようなエクスキューズが入ることは、本当に日常茶飯事。

人文系の本など、専門的な領域に踏み込もうとすればするほど、そうなりがちな気がしていて、言い換えると、自分の意見を言うことにものすごく怯えてしまっているなあと感じることも、結構あります。

もちろん、そのような前置きをしたくなる気持ちもよく分かります。

でも、個人の本の感想なんてものは、そもそも「偏見に満ちている」ものだというふうに僕は思っています。今日はそんなお話を少しだけ。

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さて、なぜ、僕らはこのようなエクスキューズを入れずにはいられないのか。

それは大抵の場合、専門的な知的訓練を受けたひとたちに対して自らが劣っているという認識がまずあって、あとは、その人達に対してしっかりと敬意を抱きたいからということだと思うんですよね。(あと、単純に自信がなくて不安だから、というのも言うまでもない。)

でも、専門家に対して敬意を抱くことと、素人目線で自分の意見や感想をしっかりと持つことは、僕はまったく別次元のことだと思います。

むしろ、そのコンプレックスこじらせたあげく、社会人になったあとに高いお金出して文系に大学院などに通っているのをみると「それって本当に必要なの…?」って思ってしまう。

もちろん学ぶことは大事なことですが、あまりにも権威性におもねりすぎじゃないかとも思ってしまいます。

それよりも、もっと素直な自分の感想を大切にすることのほうが、僕は大事だと思う。

それが前提としてあるからこそ、そのうえで専門性を高めた、より高度な読み解き方にもまた価値が宿ると思うんですよね。だから、順序が逆のような気もしている。

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そして、最初から決まり切った定型句や論文のような感想を言うのは、もうAIに任せておけばいいわけですからね。

言い換えると、その自己が自己を縛り付けてしまうまなざしを内面化してしまっている状態自体がなんだかとてももったいないし、その現象が一方で興味深いなとも同時に思います。

そもそも僕は、個人で自分の趣味の時間を当てて本を読む分には、いくらでも誤読してしまってもいいと思っています。

また、読書会という場面も、公式な空間で、公的な文章として広く一般的に公開するわけではなくて、あくまでクローズドかつ、プライベートな場なのだから、その場で変なことを言ったって一向に構わない。

あと、これは完全に個人的な意見ではありますが、僕は一番ダメな例に載せられてしまうような、一個人の突拍子もない意見こそ、いま一番聴きたいものだとも思っています。

なぜなら、やっぱりそれが人間にしかできないことだから。

AIにそんな意見を出力されてもただのエラーだとしか思えないけれど、人間が言うからこそ、その突拍子もないズレみたいなものにも、ちゃんと解釈してみようと思える価値が宿るはずだから。

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さて、今日のこの話は、たとえばスポーツをプレーすることや、スポーツ観戦の例で喩えるとわかりやすいかもしれません。

端的に言うと、古参に気を使って、にわかが全然楽しめないような状態に近いなと思います。古参のファンがいるからこそ、新規のにわかファンは自分の感想を述べられないというような。しかもそれは、古参に勝手に忖度してしまっている状態。

もしくは、プレーする側で言えば、プロ野球の選手たちのような存在に怯えて、自分たちの草野球を楽しめないような状況です。

でも、少年野球から始まり、おとなの草野球まで裾野が広いからこそ、プロ野球が成立していることも、まちがいないわけですよね。日本全国に少年団があるから、そこに観客が形成される。

彼らが自らの身体経験を通して「プロの凄さ」を理解できるわけだから。

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たとえば最近、僕は日本代表男子のバスケにものすごくハマっているのですが、こうやって、近年日本男子のレベルがものすごく底上げされていて、さらに観客が増えているのも『スラムダンク』世代が、親になり子どもたちにバスケを習わせ始めていることは間違いなく大きいかと思います。

当時、部活動で青春時代を過ごしていた人たちが、自分たちの子どもを連れてコートに戻ってきている証でもあるわけですから。

90年代から、30年という長い時間かけて、部活動などの草バスケがあったからこそ、日本代表のレベルがここまで高まったことは間違いないわけですよね。

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で、そんなことをモヤモヤと考えている中で、最近読んでいた村上春樹の『若い読者のための短編小説案内 』という本の中にとても共感するようなお話が書かれてありました。

今日のタイトルにもあるように「偏見の柱をありありと立ち上げることに、読書の喜びや醍醐味はあるのではないか」という村上春樹さんの仮説に、僕はとても強く共感しました。

以下、本書から少し引用してみたいと思います。

往々にして、僕はその作品について自分なりの仮説を立ち上げて、その仮説をもとに推論を進めていくことになります。もちろん「これは仮説ですが」と前もって断ってありますが、とにかくそこでは僕は、その作家のはいていた靴に自分の足を入れていきます。そしてその作家の目で、そこにあるものを見てみようとしています。その仮説や推論はあるいは間違っているかもしれません。書いたご本人からすれば、「俺はそんなこと思ってねえよ」ということになるかもしれません。あるいは事実と異なっていることがあるかもしれません。しかし僕としては、それはそれでかまわないのではないかと思うのです。読書というのはもともとが偏見に満ちたものであり、偏見のない読書なんてものはたぶんどこにもないからです。逆な言い方をするなら、読者がその作品を読んで、そこにどのような仮説(偏見の柱)をありありと立ち上げていけるかということに、読書の喜びや醍醐味はあるのではないかと僕は考えるのです。


これは本当にそのとおりですよね。

もちろん、村上春樹さんご自身も「これは仮説ですが」という前提が必要になります、と繰り返し語っています。

「しかし、その前提さえきちんとしていれば(要するに勝手な推論を事実のように見せかけなければ)自由に想像の翼を広げることができるわけです」と、僕らに教えてくれているんですよね。

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ということで、読書というのは「にわか」であるのが自然だし、そこに誤読であっても構わない。

それよりも、まず優先することは自分自身でしっかりと読み通してみて、そこで自分の意見を立ち上げてみることのほうが、圧倒的に大事だなあと思います。

そして、そこで自分が感じたことをちゃんと他者に伝わる言葉によって丁寧に言語化をしてみること。

以前、Voicyの対談の中でもお話しましたが「もし自分がChatGPTだとしたら、何が自分の中にたちあらわれてくるのか」。

そこで生成された文章を自分自身で読み解くことが何よりもこれからは大事なことだと、僕は思います。

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そしてあのときもお話しましたが、オーディオブックなんかもそうやってドンドン聴き流してしまって構わない。

それを「ちゃんと読めていない」と批判するひとは多いですが、でも、その読めてないのがいいんじゃないかと、僕はかなり真剣に思っています。

「読めているようで読めていない、読めていないようで、読めている」そんな状態が本当に理想的だと思います。

頭では覚えていないけれど、身体が覚えてくれている、そっちのほうがきっと大切で。

それこそが「耳を澄ます」という行為なんかにも、つながっていくように感じるんですよね。

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現代の読者たちは、あまりにもプロやSNSに跋扈するアマチュア評論家に対して目配せをしすぎて、忖度しすぎてしまっている結果、自らの感想を一番最初に蔑ろにしがち。

とはいえ、くれぐれも誤解してほしくないのは、著者の意見を完全に無視してずっと批判しながら読んでしまうこと自体も違うとは思います。

一度は真剣に受け入れる態度で、読書に臨むこと。

そのような一連の過程のなかで感じる自分の意見とは何かが大事で、Wasei Salonの中では、ぜひそれを大切にしてみて欲しいなと本当に思います。

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しかも、自分の感想や意見を早く出力することに対しても決して焦らなくていい。

ときに言い淀んだって沈黙したって構わないし、そこから何かが出てきそうならば、ゆっくりと話せばいいし、それを誰も急かさない。

だって、そもそも僕らは、生成AIを動かしているクラウドサーバーとは違って、積んでいる半導体やGPUを自由に好き勝手変えられるわけじゃないんだから。

自分のなかから出力されることっていうのは、ゆっくりとポツポツ出力されるはずで。

その過程自体を一緒に楽しみたい。もちろん、ハルシネーションがそこにあったって一向に構わないとも思います。

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逆にいえば、それこそが「人間らしさ」として、これからの時代に尊ばれるものになっていくと思います。

自分の中から出力されたものを、安心できる空間において提示し合いたい。

そのズレにこそ、新たな発見や問い、他者と共に歩んでいくためのヒントが見え隠れしているわけですから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。