先日も書いた「アテンション(注目)」よりも「エンゲージメント(つながり)」が重視されるようになってきている、というお話。


この変化に伴い、オープンなSNSが徐々に「頼み・頼まれの空間」へと変化しつつあるのではないかと思っています。

そこで大事なことは、できるかぎり紳士(ジェントルマン)的に振る舞うことなのではないか。

今日はそんな仮説について、少しこのブログの中で考えてみたいなと思います。

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さて、そんなことを考えるようになったのも、SNSの前提みたいなものが大きく変わってきたなあと最近よく思うからです。

振り返ってみると、過去5〜10年の間においてSNSで「シェアしてください・リツイートしてください」といった直接的な依頼をすることは非常にタブー視される傾向にありました。

なぜなら、SNSは信頼を構築する場所であって、タイムラインはそのひとの思想信条の表明みたいなもの。

そこでは、フォロー・フォロワーの関係性の中での信頼が一番大事にされて、自分のファンに好きでもないものを進めるのは、自殺行為に等しいことだったからです。

「案件」や「広告」が嫌われるインターネットの世界において、そのような行為を相手に無神経にお願いする人は「空気を読めない人間」「失礼な人物」というレッテルを貼られてきました。

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しかし、最近ではこの風潮に微妙な変化が生まれ始めているような気がしています。

確かに、金銭的な目的や、利己的な意図でビジネスライクに無機質な紹介を構築しようとすること自体は、今もまったく好ましくありません。

一方で、そのような認識が広く浸透し、案件的に「シェアしてください」という文化が一周まわりきったからこそ「それでも、相手にシェアを頼める関係性にある」ということにおいて、徐々に価値が生まれつつある。

それぐらい、相当との信頼関係がお互いの中に生じていないとソレはむずかしい行為だからです。

言い換えると、オープンな場の意味合いが変わりつつあって、かつての「お願いする文化、される文化」も徐々に再評価されつつあると思います。

つまり、最近のオープンな場においては、むしろ関係性の「質」こそが、より重要視されるようになってきていて、単なる数字上のつながりだけではなく、より人間的で温かみのあるウェットな関係性の構築が求められてきているように思うんですよね。

「この人だから、質や内容関係なく応援する」というような関係の構築のほうが、一周回って価値が生まれ始めていると言い換えると、よりわかりやすくなるかもしれません。

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これは一種の「フリ」が効いている状態とも言える気がしています。

多くの人々が、SNSに慣れきってしまって「どうせ案件だろう…」という前提が刷り込まれているからこそ、逆説的に案件ではない人間同士の信頼関係じゃないと、誰もそんなことは好き好んでしないわけで、それをあえてしてくるということは、よっぽどの信頼構築があるんだろうという思惑が働くわけですよね。

もちろん、ここにはそれぞれの価値観でつながったコミュニティが、もたらしている変化というのも非常に大きいものがあると思います。

逆に言えば、コミュニティが形成され始めてきているからこそ、そのような評価軸に移ってきているといってもいいのかもしれない。

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あとは、ギスギスしたインターネット環境の中で、このような濃密な関係性に対して、どこか親しみやすさを覚えるような感覚さえあるんでしょうね。

これは、ミラー・ニューロン的な効果がそこに働いているのかもしれません。他者が信頼し合っている様子を見るこによって、「ここには強い絆や信頼関係が存在するのだろう」という認識が生まれ、その絆自体に、自分自身もどこか癒やされるようになるというような。

もちろん、繰り返しますが、未だに過度な馴れ合いや、そこで何か利己的な振る舞いがあること自体は、嫌わる批判の対象となりがちです。金銭が絡めば、余計にそうだとは思います。

しかし、そのような状況下においても、相手に頼める信頼関係を構築していること自体に、少しずつ意味や価値が見出され始めている、ということが今日の僕の首長です。

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あとは、さんざんSNSによって罵倒や批判が繰り返された結果「すべてが相対的だ」ということが徐々に認識され始めていることもかなり大きいとは思います。

それぞれの主義主張をSNSのタイムラインで正直に語ってみても、必ずそれを脱構築するような第三の視点が割り込んでくるのが、現状のインターネットの特性です。

そして、そこにはたったひとつの正解がない以上、残っているのは人間関係や信頼関係、そのひとたちの立ち振舞いだけが、信頼に値する行為になってきている。

答えない世界においても、信頼をベースに無条件でお互いに頼り合えることのできる人々がいるということは、現代社会において非常に重要な要素。

このような関係性の構築というのは、自身の周囲に信頼できるコミュニティを形成できているという証でもあるわけですからね。

それが、その人自身の信頼の証にも直結しているなあと思うのです。

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で、これはきっと誰にも左右されない「本音ベース」の対話が徐々にSNSのタイムラインから離れているからこそ、起きていることでもあると思っています。

本音ベースでの発信は、エンゲージメントを高める場所としてのクローズドな空間、具体的にはVoicyやスタエフ、Podcastような音声配信や、より私的で直接的なコミュニケーションができるようなクローズドのコミュニティの場のタイムラインや書き込みできる場所に移行しつつあります。

そのような場所においては、「シェアしてください」というようなしがらみもなく、かつ脱構築してくるような視点や批判も飛んでこないという利点があります。

たとえるなら、大通りで路上ライブしていると、そこに集う観客全員が涙を流して感動していても、見知らぬ人が通りがかって「うるせー!」のひとことで台無しになってしまうから、ライブハウスや東京ドームのような防音設備が整う場所でライブする、みたいな話と一緒です。

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つまり、ここまでの話を一旦まとめてみると、SNSは「建前」、私的なクローズドの場が「本音」という棲み分けが進んでいると思うのです。

で、その「建前」としての空間において「より紳士的に振る舞うこと、ジェントルマン的な振る舞い」が今求められているってことなんじゃないでしょうか。

もちろんこれは紳士的であると言いつつも、男女関係なく、です。

公の場において「お先にどうぞ」と利他的、献身的に振る舞えるかどうか。その立ち振舞い自体が好意的に受け止められ始めている。

なんてことはない、普通のオープンな世界と一緒になってきているということだと思います。

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この点、AIの台頭により、単なる意見や感想、それぞれのイデオロギーに基づいた意見や解説にはドンドン価値がなくなってきています。

誰でもカンタンにすぐにそのような意見を生成できてしまう。

それよりも、公共の場においていかにジェントルマン的に振る舞えるかがいま問われている。

もちろんAIも、ジェントルマン的な振る舞いはできるけれど、別にそのようなAIの振る舞いをみて人間側がグッと来るわけではない。

人間には、自らの欲望や感情が存在し、そのりこ的な感情を抑制的にたち振る舞うからこそ、ジェントルマン的な成熟した振る舞いに意味や価値が見出される。

TPOに合わせた立ち振舞いができることが大事。

どれだけ正しいことを言っていても、そこに相手に対する敬意や礼儀、他者を包摂する視点が含まれていないとダメで、そこにこそ価値が生まれてきているということなのでしょうね。

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これらの変化を踏まえると、今後のSNSの活用方法も大きく変化していきそうだなあと感じています。

フォロワー数や「いいね」の数だけでなく、いかに身近な人々と深い関係性を築けているか、そして共に手を取り合って、助け合っていけているかがきっと重要になってくる。

何よりも、周囲の人達を大切にする姿勢。そして、「建前」だけでなく、ちゃんと本音を語ることができる古き良きサロン的な場にも、しっかりと個人単位でそれぞれが携わっていること。

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アテンションからエンゲージメントへ、量よりも質へ、表面的なつながりよりも深い信頼関係へと重点が移行している気がしています。

そこに存在する信頼関係こそが、本質的な意味でのソーシャルネットワークの価値だとみなされていくようになるんじゃないでしょうか。

そんなことを考えている今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。