最近、社会学者・大澤真幸さんの『我々の死者と未来の他者 戦後日本人が失ったもの』という本を読み終えました。

この本は、自分のために書かれたのではないかと思うほど、今の自分には、ものすごくドンズバの内容となっていて驚きました。

これから複数回にわたってきっと紹介していくことになると思います。

今日はまず、この本の中に出てきた哲学者・カントの「働く」に関して、非常に興味深いことが語られてあったので、それをご紹介してみたいと思います。

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早速以下で本書から引用します。

カントは、「世界公民的見地における一般史の構想」という文章の中で、「不可解な謎」として、次のような趣旨のことを述べている。人間はしばしば、その成果として得られる幸福を享受できるのがずっと後世の世代であって、自分自身ではないということがわかっているような骨が折れる仕事でも、営々と従事する、と。人間が、自分の幸福や快楽のために生きているとすれば、これは奇妙なことである。しかしたいていの人は、自らを振り返ってみれば、確かにこの奇妙なこと、不可解なことをやっている。たとえば、自分の退職が迫っていても、我々は、さして手を抜くことなく熱心に仕事をして、自分が去ったあとでも会社に残っている人、これから入社してくる人のために、がんばるだろう。


これは、言われてみると本当にそのとおりだなあと思いますよね。

「ただ、現代の日本人を集合的に見たときには、確かに実際に稀なことになってしまっている」と大澤真幸さんは語ります。

それは具体的にどういうことかと言うと、現代の日本人に関して言えば、カントがここで語るようなことは普通のことではない、と。

つまりは、現代の日本人は、自分が享受するわけではない幸福のために特に努力したいとは思っていないように見えるよね、ということです。

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実際、現代の日本人においては「人生は暇つぶし」論のようなものが主流の意見になりつつありますよね。そして、行き過ぎた個人主義のようなものが、一般的になりつつもある。

もちろん、もしそこに本人の納得感があれば、それはそれで本人の自由だと思うのですが、でも一方で、やっぱり「人生は暇つぶし」論は直感的に間違っている感じる、違和感があるというひとも多いはずです。

もちろん僕もその一人です。

じゃあ、それは一体なぜなのか。

本当の生きがいは、過去の死者たちの積み重ねたものに、またひとつ自らが石を積むということ、だからだと思います。

そして自分の上に石がまたのせられるということに、期待することでもあるんだろうなあと思います。

それこそが唯一、アイデンティティ・クライシスに陥らないための道。

逆にいえば、この資本主義社会において、客観的にはすべてが成功したように思えるのにもかかわらず、空虚感に苛まれてしまう原因もきっとここにある。

過去に何度もご紹介してきた柳田國男の「先祖の話」のような話でもあります。

そんな縦の系譜の中に、自らをどのように位置づけるのかが、本当に重要になるということなのでしょうね。

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で、昔はそれを宗教が担っていたわけです。あとは広義の「家族」や「家」ですよね。

ただし、科学が発展してきた結果、宗教的な感覚もドンドンと通用しなくなってしまい、次第にそれがナショナリズムやネーションのような感覚に移り変わっていくことにもなる。

本書の中でも以下のように語られていました。再び引用してみたいと思います。

ネーションへの所属意識は、我々の死者をもつ、ということと同じことを意味している。ネーションへの所属とは、自分自身を、その我々の死者の系列の中に位置づけることである。つまり、現在の我々もまた、やがて我々の死者の一員となるだろう。そのことが、現在の(我々)の希望と合致しているとき、ナショナリズムは健在である。
ここから、ネーションやナショナリズムは、近代において、かつて宗教が果たしていた機能を担っているということがわかる。我々の人生は有限である。人は必ず死ぬ。そのことを我々は知っている。この問題に対するさまざまな回答こそが、宗教であった。「神の国」とか、「輪廻転生(と解脱)」とか、「祖霊の共同性への参入」とか。こうしたものを素朴には信じられなくなった近代人に対しては、ネーションが代わりに回答を与える。有限な人生を超えて持続的に存在する<我々の死者>のうちに参入するという約束のもとで、人生に意味が与えられる。


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じゃあ、なぜ現代の日本人は「過去の他者」に対しても、そして「未来の他者」に対しても、コミットメントが著しく弱くなってしまったのか。

それは、日本人は<我々の死者>を失ったからだと、大澤真幸さんは語ります。

もちろん、どのタイミングでその感覚を失ったかといえば、それは太平洋戦争に負けたときであると。

ソレまで続いていた縦の系譜を一度、そのタイミングで否定しなくてはならなくなって、その結果、過去に向かっても未来に向かっても存在しない「他者」を信じられなくなった。

その帰結として、その系譜の上に自分たちが存在するということを否定せざるを得なくなったんだと大澤真幸さんは考察します。

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で、なにはともあれ、この本の内容から言えること、というか最近僕がずっと似たようなことを語り続けているその結論というのは、人々がアイデンティティ・クライシスに陥る理由は、明確に存在するということ。

そして、たった100年程度にも満たない自らの儚い、影法師のような人生を、より「大きな物語」へと接続しなければ、人々が虚無感に陥ってしまうことはまちがいない。

それを復活されるために、コミュニティ文脈やローカル、そして広義の家族の文脈を、今一度自分たちの世代にあった形で立ち上げることが必要であるということです。

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さて、ここから話が個人的な話に急展開するんですが、僕が最近、バスケの日本代表男子に強く興味を持つようになった理由もきっとここにあるんですよね。

スポーツって完全に「継承の物語」なんです。しかも、それはものすごく新陳代謝の激しい短時間の間に繰り返される継承の物語です。

もちろん、個人競技や団体競技など関係ない。特に日本代表などの代表戦はこの視点がものすごく強いなと思います。

言い換えると、スポーツは世代交代がとても早いからこそ、短い時間軸の中でも「縦の系譜」の意味合いや、その疑似体験ができてしまう。

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この点、つい数年前まで僕はスポーツ選手は、なんならちょっと可愛そうだなあと正直思っていました。あまりにも現役の期間が短すぎるから。

ゆえに、前回の東京オリンピックまでは大して興味を持つこともできなかった。

ただ、代表選手が全員自分よりも年下になると、こっちが一気に老人になった気分になるんですよね。

これはたぶん35歳を超えてみないとわからない感覚です。

最年長(今の日本バスケで言えば、比江島選手)であっても自分よりも年下で、そして実際に彼の中に残るあどけなさみたいなものにも敏感に反応してしまう。

他にも例えば、現役ど真ん中のエース八村塁選手は、ベンチから試合を眺める目がものすごくまっすぐなキレイな目をしているなあと思わされる。

もちろん言わずもがな、河村勇輝選手なんてその最たるものだと思います。

さらにスポーツのすごいところは、そのA代表のコートサイドの観客席には、U-22の代表選手たちが、キラキラした目でまた観戦をしている。

つまり、また更に次の世代が、自分たちの時代はまだかまだかと、虎視眈々と待っている様子なんかも同時に見て取れるわけですよね。

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つまり、スポーツの世代交代って、縦の系譜や広義の家の「縮図」みたいなんですよね。

縦の系譜を継いで、繋いでいくということが本当にわかりやすく描かれていて、その贈与関係なんかもわかりやすい。

たとえば、今回の代表選手を丁寧にインタビューしているのは、すでに43歳になった日本人初のNBAプレイヤー・田臥勇太さんだったりするわけです。

彼の先行の努力があったからこそ、それがひとつの贈与となって、次の若手たちが今、ドンドンとNBAに挑戦し始めているわけですよね。

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このような状況を見せつけられると、僕らの30代の若造でも何か強く感じ入ることができる、そんな疑似体験装置が、明確にそこに存在するなと思います。

もちろん、世の中にはもっとわかりやすい伝統芸能なども存在するわけですが、格式高すぎるし、そもそも親近感がなくて、その実感すら持てない。

自分が老けるまでは、本当の意味でそれらは実感できないものであるはずです。

でもスポーツは違う。

誰もが幼い段階から参入していて、僕自身もバスケットボールを始めたのは10歳頃でした。そうすると、すでに25年間が経過し、四半世紀が経過している。

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このように、スポーツは現代に明確に残っている数少ない縦の系譜を継ぐ物語のひとつなんだろうなあと思います。

だからこそ、僕は今こんなにも惹きつけられているし、コミュニティづくりにものすごく役に立つ知見に溢れていると感じる。

ゆえに、何か自らに得られるヒントはないかと、必死になって毎試合追っているんだと思います。

ある種、その無性に感化される自分自身を、一つの実験室のように見立てて、です。

なんて長い言い訳なんだと思われたかもしれませんが、そんなことを考えている今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。