最近よく思うのは、以前よりもさらに、同じ瞬間の共有、そんな「同期性」の価値が増してきているなあということです。

Wasei Salonのオンラインプラットフォームを開発してくれているオシロさんは、これを非常にわかりやすく言語化をしていて「知識や情報共有よりも、感情共有を最近は重視している」と仰っていました。

この感覚は、とてもよくわかるなあと思う。

欲しいのは、そんな「感情」をベースにした「時間や瞬間の共有」なんだろうなあと。

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思うに、今は若い人たちを中心に「求められているもの」をつくりだすことそれ自体にもう完全に飽き飽きしているように見える。

特に若い世代を中心に、何かを「作り出すこと」それ自体への不信感が高まっているように感じます。

それよりも、より曖昧で捉えどころのないもの、もっとフワッとしたものを共有できることに価値を感じているような気がします。

正解のない感覚的なもののほうを共有することに、新しい価値を見出しているように僕には見える。

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この傾向は、最近のnoteの投稿にも顕著に表れているように感じています。特に印象的なのが、いわゆる「ポエム」的な記事の傾向において。

プロの書き手の方々からは、「素人だから技術が未熟で、そういう曖昧な書き方になってしまう。だから読まれないし、もったいない」という批判なんかもよく耳にします。

でも僕は、その指摘って、ちょっともう現代においては完全に的外れだと思うんですよね。

もちろん、今からちょうど10年ぐらい前のnote界隈では、そのような批判はまともな指摘だったかと思います。

プロブロガーとかフリーのライターとかを目指したいと思っている若者が有象無象に集っていた時代でしたからね。

でも、今の若い世代でnoteを書いている層は、かなり意図的にそのようにフワッとした記事を書いているようにも思うのです。

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なぜなら、会社や仕事のなかで「合理的でわかりやすい」説明ばかりが求められて、そんなコスパもタイパも高いものばかりを常に求められ続けているから。

だからこそ、自分が趣味で書くnoteぐらいは、もはや「たくさん読まれること」を目指すのではなく、より本音に近い、自分自身が「書いてよかった」と思える表現を必死で選ぼうとしているのだろうなあと。

それが、たとえ多くの人に読まれなくても(お金が稼げなくても)本当に共感してくれる数人にでもちゃんと届いて「あの記事がとても良かった」と共感してもらえることに、価値を感じているんだろうなあと思います。

それが当然、コミュニティ文脈や推し活文脈なんかにもつながっている。

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最近、正岡子規について調べる機会が多かったので、余計にそう感じるのですが、日本の和歌や俳句に込められた「もののあわれ」や「いとおかし」という感覚もまた、まさにこの「フワッ」とした「感情共有」に通じるものがあるはずで。

正岡子規は、慶応3年生まれ。ちょうど明治時代と同い年らしく、明治のあの時代も、近代化の波の中で、いろいろなものがもすごいスピードで音を立てながら変わっていった時代ですよね。

それは言い換えると、近代合理主義の荒波に日本が飲み込まれていった時代とも見事に重なるわけで、忘れされらていく「フワッとした感覚」を、なんとか俳句という形で味わいたかったという部分もあったと思うのです。

だから、正岡子規がつくった小さな俳句のコミュニティというのもまた、当時そのような役割をはたしていたんだろうなあと。今でいうところの「文学フリマ」みたいな。

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つまり「価値?求められているもの?    知るかよ、そんなもん」というある種の反骨精神が若い人たちの間に、いま静かに芽生え始めているなと思います。

もっと卑近な例で言えば、きっとミーム文化なんかも、それがわかりやすく現れている。

ミームには何の価値もないと言われてバカにされがちだけど、でもそれゆえに、ただ「今この瞬間」の時間を共有した、というその喜びだけがそこに宿るわけですよね、逆説的に。

それが一番強烈に体感できるのが、ミーム文化の特徴。

「これの一体何の意味があるのか?」という良識ある大人が見下すような馬鹿げたものだからこそ、同じミームというノリを共有しているという喜びそれ自体を感じられることにこそ、価値があるということなんだと思います。

数時間でも乗り遅れたら、その高鳴る感情には、まったく価値がないですからね。

誰にでもわかりやすいところで言えば、金曜ロードショーの『天空の城ラピュタ』が放送されるたびに巻き起こる「バルス」祭りなんかにも近いものがある。

録画して、あとからそのバルス祭りに参加しようと思っても、一切参加できないわけですから。でもだからこそ、バルスにはバルスの価値が宿る。

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で、それらは本当に祭りみたいなものであって、非日常を味わうためのものだと思うのだけれども、

最近の傾向としては、もっとケの日常のなかにおける「感情共有」にも価値がどんどん増してきている傾向があるなということです。

もっと凪としての感情共有、若い子が「チル」と呼ぶような感覚としての同期感みたいなものもきっとそうなんだと思います。

生産性もなく、活動に何か明確な価値があるわけでもなく、その同期をしている感覚にこそ私達の味わいたいものがあったはずだと、机の下で静かに中指立てている感じみたいなものがあるよなあと。

オンライン上でも、ライブ配信であえてアーカイブを残さないトレンドなんかも、きっとそうです。

「あの日、あの時、あの場所で」同じ時間を間違いなく共有したという確かな記憶、自分たちのその記憶の共有それ自体に大きな価値を感じているということなんじゃないでしょうか。

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ここで少し話はそれますが、最近、橋爪大三郎さんの『上司がAIになりました 10年後の世界が見える未来社会学』という本を読み終えました。

普段は、社会学の分野や宗教学の分野でキレッキレの橋爪さんが、このAI社会の到来を分析する本においては、世間と変わらないAI分析の話をしていて、なんだかとても拍子抜けしてしまいました。

でも、それもそのはずで、それぐらいAIはただただ「革命が起きるよ」って、ことなんだろうなあと思います。そこに、歴史や文化に対する理解度なんて大して関係がない。

で、そうなる未来では、本当に多くのことをAIが実行してくれるようになるわけです。

だとすれば、より一層人間の仕事はむしろ「前に出ていくこと、時間を共有すること」それ自体が仕事になるんだろうなあって思ったんです。

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言い換えると、この感情共有を行えることが、人間の最後に残された仕事、とも言えそうです。

この点、最近、糸井重里さんと伊集院光さんの対談動画を「ほぼ日の学校」のYouTubeチャンネルで見たのですが、このときに糸井さんが「無意味な自由時間を共有することの価値」について熱く語られていました。

日本代表のラグビーチームは「決まった時間以外の自由時間を大切にしていて、このような遠征や合宿の移動時間のようなものが非常に重要な要素になるんだ」と。

本当にそのとおりだなあと思います。そして、これもまた、現代を生きる僕らがスポーツチームに感動する理由のそのものでもあるはずです。

よくよく考えると、プロスポーツって、人種も宗教も価値観も、そのすべてが異なる人々が一つのチームで一丸となって、ありえないぐらいの身体能力を、コンマ何秒とかのレベルで、息を合わせて同期を実現するわけじゃないですか。

一つの競技においてあれだけの連携がとれること、その凄さです。そのチームワークのは、この無意味な自由時間の共有の賜物なんだと思います。

一方で、現代においてはリモートワークなんかの普及によって、どんどんそんな時間の共有が社会人の中から失われている。

そりゃあ、人々が昔よりもさらに分断してしまうのも当然ですよね。

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とはいえもう、効率化を求める流れももう止められない。

AIの登場で、それはより一層加速をしていく。

会社や学校、地方行政や国家行政もより一層効率化は猛スピードで進んでいく。それは明治時代なんか比じゃないかと思います。

だからこそ民間レベル、しかも営利だけを目指すわけではないコミュニティレベルにおいて、このような「感情共有」をするための時間の共有が、これからはより一層重要になってくるんだろうなあと思うわけです。

まさに昨日もお話した「中間共同体」の価値はこのあたりにありそうだなあと。

インターネットとスマホの普及によって逆に孤立・分断が深まった現代だからこそ、「フワッとした感覚」や「感情共有」も重視するような中間共同体の復興が求められる。

当然、そんな中間共同体を加速させるもの、そのカギを握るのは「ケアと金」の話でも書いたように、トークンやポイントの存在なのだと思います。

なにはともあれ、無目的な自由時間の扱い方、そこから生まれる言葉にならない「もののあわれ」の感覚、このあたりがより一層重要になってくるかと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。