先日、ゲンロンカフェのYouTubeチャンネルで、東浩紀さんの大統領選の振り返りをしている無料動画を観たのですが、この内容がすごくおもしろかったです。
https://www.youtube.com/live/0W59Sacri5c?si=Nh9VklU4x3TPD4XC
とても納得感を感じられるお話で、全体では5時間以上あるライブ配信だったのだけれども、最初の1時間程度で大統領選の話は完結しているので、ぜひ最初の1時間だけでもラジオ感覚で聴いてみて欲しいなあと思います。
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僕が特に印象に残っているのは「人間には、醜い欲望があるということをまずは認めること」という文脈で語られていたお話です。
今のリベラルは、物事を善悪の二元論で捉えすぎてしまうことに問題がある、と。
たとえば「差別=絶対的な悪」として、それを完全に排除しようとする。しかし、そのような厳格な基準の適用は、かえって社会の分断を深めてしまう結果となる。
実際、今回のアメリカ大統領選の結果の背景には、この過度に厳格な基準を適応しようとするリベラルに対する「いい加減にしてくれ!」という叫びが含まれていたと思われます。
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少なからず、人間が生きていれば、誰しもが差別的な感情や浅ましい欲望を持つし、それは否定しようのない事実だと思います。
東さんが指摘されていたように、大切なのは、その事実を前提としたうえで、節制やコントロールが大事だということなのでしょうね。
言い換えれば、客観的で絶対的な善悪がこの世に存在するわけではなく、自らの欲望と向き合い、それがコントロール配下にあるかどうかのほうが重要であると。
醜い欲望をすべて悪だと割り切ってしまい断罪するから、今のような分断が起きてしまう。そうじゃなくて、そのような欲望とも、ちゃんと向き合っていかないといけないよね、というお話を、東さんは古代ギリシャ哲学の話や、フーコーの『性の歴史』の話と絡めながら語られていて、とてもおもしろかったので、ぜひ気になる方は、配信を直接聴いてみて欲しいです。
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で、この「醜い欲望との向き合い方」ってこれから、ますます大事な観点になっていくと僕は思っています。
しかもそれは、労働者階級の差別意識などだけに限らず、エリート階級においてもそう。
思うに、今回の選挙結果を受けて「白人労働者がエリートを妬んでいる、ルサンチマンだ!」という話が広く語られていたけれど、僕はあまりその意見には納得ができていません。
むしろ、これまでエリートがエリートとして認められていた理由は、自分のことを後回しにし、「持てる者の義務」を果たそうとすることと引き換えに、その地位を与えられていたはずなのに、そのエリートが自分の利益のことしか考えなくなってしまった。
「自分さえ良ければそれでいい」という態度をあからさまにするようになったからこそ、「欺瞞だ、引きずり下ろせ」となっているのではないかと思うんですよね。
そして、エリート階級側もそれを大して隠さなくなった。なんならそれが、自分たちの特権性のようにして語り振る舞ってしまっているわけですよね。
SNS上でも、そうやって自分たちがいかに物質的に豊かであるのか、正義の側なのかを見せびらかしてばかりいたら、そりゃあ、一般庶民の側の心や気持ちが離れていっても仕方ない。
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もちろんこれは、今の日本も例外でははなく、国内でも最近は「経営者は、もともと変人であって、その変人ゆえの卓越した能力なんだから、ある程度は目をつぶれ」というような議論まで飛び出してきている始末です。
もちろん、言いたいこともわからなくもないけれど、でもやっぱり、そんなわけがないじゃないですか。人の上に立つ人たちは、人格者であることは、求められて然るべきことだと思う。
実際、結果を出してくれるひとたちは、自分たちがいかに恵まれた立場にいるのかを理解した上で、それをしっかりと社会や世界に還元しようとしているわけですよね。
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たとえば、僕が最近読み漁っているバフェットやチャーリー・マンガーなんかも、世界有数の大富豪になった後でも、質素倹約な暮らしをして、その築いた資産のほとんどすべてを寄付することを明言していたりもする。
彼らがお金を増やし続けるのは、それを「活き金」として社会に還元するためなわけですよね。
バフェット自身も以下のような言葉を以前語っていたそうです。
「その気になれば、1万人の人を雇って私の自画像を毎日描かせることもできる。それでもGNPは成長するだろう。しかし、それによって得られる生産物の価値はゼロだ」
これは、ただそのままばらまけば良いというわけではないということですよね。そんなことをすれば、むしろ価値をゼロにしてしまう、と。
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で、きっとここまで読んできてくださった方々の中で野心的な方々はきっと「せっかくの大富豪になったのに、質素倹約に努めて、すべてを寄付して終える人生っって意味ないじゃん。そんな人生の一体何がおもしろいの…?」と思っているはずなんです。
でも、それはたぶんまだ「本当の豊かさ」をほとんど理解できていないということなんだと思います。
たくさんの尊敬できる人たちとの対話や、そこには心あたたまるような豊かな交流もある。
一方で、もちろんそのポジションに上り詰めるために、乗り越えなければ、苦難や葛藤もたくさん与えられる。でもその先に、ひととしての「成熟」に向かうこともできる。
それ以上の一体何を求めるのか、ということですよね。
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稲盛和夫さんが以前何かの本の中に書かれていた「人生の目的とは、お金儲けや立身出世など、いわゆる成功を収めることではなく、美しい魂をつくることにあり、人生とはそのように魂を磨くために与えられた、ある一定の時間と場所。」という言葉が僕は強く印象に残っています。
当然、「美しい魂」というような宗教性の強い表現は、好き嫌い分かれると思うけれど、僕はこの美しい魂というのは、葛藤からの「成熟」と同義だと思っています。
だとすれば、自分のために使えない「豊かさ」を耕していくことににこそ、人生の意味があるのだとも思える。
本当は、このような価値観が前提の上での「エリート階級の存在意義」みたいなものがあったはずなんだけれど、今はそのような価値観が、どんどん劣後に追いやられていることに大きな問題があるんだろうなあと思っています。
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そのうえで、今のアメリカ、及び世界各国が直面している問題の核心は「つながりの希薄化」でもあるんでしょうね。
以前もご紹介したことのある、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の中で指摘されてと言われているような中間共同体、その力強さの復興がいま改めて重要になってきているということなんでしょうね。
実際、先日放送されていたNHKスペシャル「混迷の世紀」でも、アメリカの中にある小さな希望として、立場の異なる人々が集う中間共同体(教会)の中で、立場の違う者同士でお互いの意見を理解し合おうという試みが、報道されていました。
このあたりは、アメリカの底力だなあと思わされます。市民レベルでのボトムアップが、アメリカの建国の理念のもとに、民間人同士の間で実行されている。
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これは東浩紀さんもよく語っているですが、「中道というのは、考え方や思想の中立制ではなく、そこに参加している人々が、多様な政治的立場を持っていて、そのひとたちが同じ空間に共有していることである」と。僕も、このスタンスには強く同意します。
「中道」と言いながら、何か客観的な中立性があると思ってそれを追い求めるから、そのひとがいる場所から見た景色によってその「真ん中」が変わってしまう。
右にいる人と左にいるひと、それぞれの真ん中は異なるわけです。そして「あいつらは嘘をついている!」と互いに言い合うわけですからね。
そうじゃなくて、コミュニティの中における多様性こそが、本来の中道であるというのは、本当に大事な視点だと思います。
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本来は、お互いがつながるためにうまれたインターネットによって、皮肉にも各人が孤立をし、スマホに映し出される情報だけをもとにタコツボ化した結果、見事に分断されてしまったわけですが、だからこそ、ここから再びつながっていく、中間共同体を再構築していくことが急務なんだろうなあと。
その中間共同体の復興と分厚さが、これからは大きなカギとなるはずです。
規模ばかりを追い求めたコミュニティをつくろうとせず、真の意味での中道のコミュニティを、参加者一人ひとりが作り上げよう、その包摂を大事にしていこうと思うことが、小さな一歩ではあるけれど、着実な変化を生み出していくのだと思います。
そして、顔の見える距離感の中で、お互いが自分ができる範囲での「持てる者の義務」をそれぞれに果たし合っていけば、きっと今みたいな分断の広がり自体も、少しずつ縮小していくはず。
もちろん、自分自身もその一端を担っていきたいですし、Wasei Salonもそんな場を目指していきたいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。