「人の不幸は蜜の味」と言うけれど、他人が苦しんでいる様子そのものを見たいわけじゃない。

その様子を見ることで、「自分は大丈夫だ」と自己の現状肯定をしたいんですよね。

つまり、どんな残虐な行為であっても、最後は「自己の保身のため」なのだと思います。

そこで、昨日こんなツイートをしてみました。

この言い訳が広く一般的にも通用するようにと日々願うようになり、次第に自らも炎上に加担するようになってしまう。

なぜならインターネット上が安全な場所になってしまうと、自分の意見を勇気を出して発信しないといけなくなってしまうから。

むしろ、今のネット上の荒れ方はそのような勇気を出すことを避けたい人たちの需要(ニーズ)の結果でもあるんじゃないかと思うのです。

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このように「◯◯が悪い。だから私には責任がない。私ができなくてあたりまえ。」といった論法は至るところに存在しています。

空欄には、親、学校、会社、社会などなど、自己の可能性を制限するものはすべてが含まれる。

そして、同時代に生きる国民はだいたい似たような状況に置かれているわけですから、ひとりが上手な論法を考え出すと、それが一気に普及していきます。

さらには、その状況下に当てはまるひとが多ければ多いほどその考え方が一般化してきて、多くのひとにとってそれが自己の保身の論理としてより一層都合が良くなるように、集団全体で社会のほうを改変していく。

しかし、ひとりひとりは、まさか自分がそこに加担してつくりあげたものだとは思わない。

結果として、そうやって集団で生み出した悲惨な社会状況を指差して、「ほらね、やっぱり。どうにかならないのか、この世の中。」とため息をついて嘆く素振りを見せる。

この状況を生み出したのは、ほかならぬ私たちなのにも関わらず、です。

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たぶん、この構造は一生なくなりません。

それこそ『旧約聖書』のなかでもアダムとイヴは、自らがりんごを食べてしまったとき、アダムはイヴのせいに、イヴはヘビのせいにした。つまり、自分の過ちを他人のせいにして、被害者のように振る舞うのは、もはや人間の性なのでしょう。

だとすれば、この人間社会の構造を理解して、なんとかそこに足を踏み入れないようにするしかない。

そのためには、淡々と自己の至福を追求することに尽きると思います。

もちろん、ここでいう「至福」とは何か低俗な欲望を指すのではなく、自らの至上の喜びをひたすらに探求するということ。そして同時に、他者の喜びも祝福すること。

ひとりひとりがそのようなスタンスに変わっていくことで、社会全体も少しずつ変化していくはず。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。