個人の腹を括った決断や、誰にでもわかりやすいビジョンなんかよりも、ひとりひとりの中にある「迷い」や「葛藤」のほうが実は圧倒的に重要で、「そこにしか倫理の灯火は灯らないよね」っていう話を、最近繰り返しこのブログやVoicyの中で語ってきました。
そんなことをモヤモヤと考えていたとき、「迷い」や「葛藤」というのは「ためらい」と言い換えることもできると知って、なんだかものすごく腑に落ちたんですよね。
だとすると、内田樹さんの書籍『ためらいの倫理学』なんて、本当にドンズバのタイトルだったんだなあと思ったんです。
ゆえに、いま改めてこの本を読み返したくなってきたので、内田樹さんの『ためらいの倫理学』を再読してみました。きっと今回が3回目です。
今日は久しぶりにこの本を読み返してみて、改めて個人的に刺さった部分をご紹介しつつ、そこから自分が考えたことをご紹介してみたいと思います。
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まず、早速読み返しながら、ハッとした部分をご紹介したいと思います。
フェミニズムは「欲望を解放したい」という衝動と、「集団より個人を優先させたい」という衝動を動力源にしている。これらはいずれもこれまでは公然と口にすることがはばかられた言葉である。 近代社会は「欲望をコントロールして、規範に従うこと」と「家族をつくり、その中でのロールプレイングに徹すること」を基本ルールにしてきた。自分の欲望を公然と口にし、それを優先的に追求する生き方は「恥知らず」なことであり、その場で期待されている役割演技を正しく演じきれないものは「礼儀知らず」として強い非難を受けた。 フェミニズムはその近代ルールを正面から否定した。個人の自己実現と欲望の充足を集団および他者のそれよりも優先させる生き方を「より人間的である」として肯定したからである。
近年のありとあらゆる個人の「〜からの自由」は、すべてここに書かれているような構造にあるなあと感じています。
最近だと「老い」に関する議論なんかもそう。
「世間が押し付けてくる『老人』という役割を引き受けたくはない、それよりもいつまでも若々しくあろう!」と語るような言説が、団塊の世代を中心にまことしやかに語られているようになってきていると思います。
それこそが、「個人の自由」を最大限謳歌することにつながるのだ、と。
とはいえ、そうやってひとりひとりが「個人の自由」を優先して、社会の中の役割を演じなくなったら、社会が崩壊してしまうということは、子どもでもすぐに理解できる。
それはトマス・ホッブズの「万人の万人に対する闘争」の話を持ち出すまでもなく、社会の秩序よりも、個人の自由を優先したら、最初は個々人の満足度が高かったとしても、必ず組織というのは崩壊してしまうのはわかりきったことです。
そうやって、個人の「特殊意志」を優先して「全体意志」を実現しようとすると、必ず社会は崩壊してしまうことを人類は何度も何度も繰り返し経験してきたからこそ、「共同体」を生み出すために「一般意志」を優先するための「社会契約説」のような概念を生み出してきたわけです。
そして、もちろん、ここまでの話というのも、あくまで妄想に過ぎません。ホモ・サピエンスはもっともっと別の理由で「共同体」をつくってきたのかもしれません。
引き続き、本書から引用してみたいと思います。
人類が共同体を作って暮らし始めて数十万年経つ。その間に、どれほどの数の個体が生き死にしたか、数えられないけれど、人類学が教える限り、その中に「共同体」「歴史」「伝統」そして「性による社会的役割分担」をもたなかった社会集団は一つとして存在しない。数十万年のあいだ、そんなふうにずっと存在してきて、今でも世界中のいたるところに存在する制度を「もう要らない」と言うには、それなりの説得力のある論拠が必要だろう。 社会はつねに「より正しい方向」に進化しているのであるから、古いものは棄ててもよいのである、という単純な進歩史観だけでは私は説得されない。 「共同体」や「歴史」や「伝統」や「性差」のような社会制度がなぜ存在するようになったのか、その起源を私たちは知らない(とレヴィ=ストロースは書いている。私も同意見)。しかし、そのような社会制度を持った集団だけが今に生き残っているという事実から 推して、そのような制度には何らかの人類学的意味があると考えた方がよいのではないか。
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さて、ここまで確認してきたことから、おぼろげながら見えてくることは「リベラル」と「保守」の根本的なスタンスの違いです。
どちらも、一理あると感じてもらえるかと思います。でも僕は、正直どちらのスタンスに対しても違和感が残る。
だからこそ僕は、政治学者・中島岳志さんが主張されている「リベラル保守」という立場が今のところいちばん自分には親和性が高いと思っています。
リベラル保守とは、寛容と自由を基盤に置き、かつ「大切なものを抱きしめる」のではなく「大切なものを守るために変わる」という思想、です。
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じゃあ、この「大切なもの」は何か? ここが今日一番重要なポイントになります。
言い換えると、一体何を守るために、私達は必死で変わろうとし続ける必要があるのか、ということ。
最近、僕が必死で伝え続けていることは、この「大切なもの」が今の世の中ではものすごく曖昧だよね!ってことなんです。
それが曖昧であるがゆえに「個人の自由」を優先せざるを得ない状態になってしまっているのだ、というのが僕の主張です。
なぜなら、皆で目指すべき「ストーリー」が完全に終焉を迎えてしまったから。
以前書いた、皆で守っていたダイヤモンドの話にも近い。「もうみんなで守るべきダイヤモンド(ストーリー)がなくなったんだから、各自『私の自由』だけを求めて生きよ!解散!」みたいな状態がまさに今。
参照:自らが考える正義のためなら、人はどこまでズルくあってもいいのか?
それが新自由主義的な発想や、リバタリアニズムにもつながっている。
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でも本来、人間が社会を構築して助け合いながら生き抜いていくためには「中心」に何かを置いて、それを守るようにして擬似的な「共同体」を構築していく必要がある。
最初は、それが「神」概念を中心に置いた自然発生的な集落共同体だった。でもそれは「産業革命」によって破壊されました。
次に、自らの「領土」を守るための国民国家に変化した。でもそれは第二次世界大戦の様々な手痛い教訓から、完全に幻想であることを思い知ったわけです。
そして、最後は「経済発展」や「金銭的な利益」に変容し、日本人は「大企業」にその居場所を求めました。
でも、2023年現在、それさえももう追い求めることができなくなってしまったのです。
国際競争力が落ちて、日本自体が衰退してきたことにより、そんなものも幻想でしかなかったと気づいてしまった。
少なくとも、もう今の若者たちは、そんなもの(大企業)のために、自らの「個人の自由」を放棄してまでも守るべき価値があるものだなんて、まったく思わなくなってしまった。
つまり、「共同体」のほうを優先する「ストーリー」が、完全にこの世から消滅してしまったんですよね。
こうなるともう本当に「個人の自由」以外に説得力のある「私が身を挺して守るべきもの」がなくなる。
でも繰り返しますが、そうすると必ずいつか社会は崩壊してしまいます。
「個人の自由」を優先したことを引き換えに、必ず人々はバラバラになってしまう。実際に既に多方面でそうなりつつあるかと思います。
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そして、ここから話が一気に飛躍してしまいますが、いま僕らがこのような変化を薄らぼんやりと感じ取っていて、まさにNFT(コミュニティ)にそのような希望の光を抱いているのではないでしょうか。
だからこそ、つまらない小銭稼ぎの手段なんかのために、このNFTという新たな可能性の芽を絶対に摘んではいけないと思うのです。
だってこれは、僕らの「共同体の復興運動」そのものなのだから。
参照:NFTコミュニティに移住する。
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最後にまとめると、世の中が「個人の自由」を追い求めると、一見するとものすごく良い社会がやってきそうです。
でも、そうすると必ず倫理観を逸脱するヤツらが同時に現れる。
当然ですよね、「社会的な役割」よりも、それぞれの「個人の自由」最優先することが最善の世界なのですから。
そもそも、私達の中に存在しているそんな「倫理観」というもの自体が、時代によって変化してしまう曖昧なものであり、「既得権益者」が自分たちの優位性を確保するためだけに、一般庶民に植え付けた幻想に過ぎないんだ、私達は不当に搾取されている!といくらでも言えてしまいますからね。
結果、「個人の自由」を明らかに求めすぎた暴走行為も生まれてきてしまい、それは「法律」で縛るしかなくなります。
そうすると、どうなるか?
逆説的ですが、国家権力が強大になっていくのです。
「個人の自由」を全員が必死で追い求めた結果、国家権力が一番強くなるんです。なんとも皮肉な話です。
ナチスドイツが成立する直前に、ドイツで発布された「ワイマール憲法」が当時世界で一番リベラルな憲法だったという話にも、なんだかとても良く似ているような気がします。
だからこそ僕は、内田樹さんと釈徹宗さんの対談の中で語られていた「ひとりひとりが倫理観が高いほうが自由で生きられる。みんなでフェアネスを担保した場をつくったほうがいい」という話がものすごく重要な視点だと思うのです。
今日のお話が、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。