昨夜、Wasei Salonの中で、NHK出版から出ている『学びのきほん    しあわせの哲学』という本の読書会が行われました。

この本は本当に素晴らしい本で、これから何度も何度も繰り返し読み返したい本ですし、定期的にWasei Salonの中でも読書会を開催していきたいなあと思っています。

実際に、参加してくださった方々も、みなさん口を揃えて良書だと仰っていたので、きっとWasei Salonという空間とも非常に相性のいい本なのだと思います。

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しかし一方で、良書すぎるがゆえのモヤモヤするポイントとして挙げられていたことに「あまりにも理想的すぎないか?」という疑問もありました。

これは僕自身も、とっても共感するお話です。

特に「子育て」に関する部分は、理想はそうだとしても、現実はもっと複雑であると。

僕自身は子育てをしたことがないから、あくまで想像の域を出ませんが、たしかにそのように思ってしまうこともあり得るのかなあとは思いました。

そのような理想と現実のギャップを突きつけられると「理想論ばかり語りやがって…!」と次第にイライラした感情も湧いてきてしまうかと思います。

この点、往々にして哲学や思想、宗教などの主張に対しては、このような批判の目が向きがち。

今日はこのような理想的すぎる理念問題に対して、いつも自分が考えていることを、このブログの中にも書き残しておきたいなあと思っています。

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まず僕は、明確な正解なんてこの世には存在しないけれど、その実現に向かおうとする運動や過程そのものが正解であるという状態というものが、この世にはあると思っています。

たとえば「正義」なんかは非常にわかりやすい。

正義には何か明確な「これ」という1点の正解があるわけではありません。

だから、いつだって正義というのは、時代によって移り変わっていくものなのです。それはもう間違いない。

でもそのうえで、ひとつ真理があるとすれば、今の多数派の正義をまた別の正義と戦わせて、その正義が新たに塗り替わっていくという可能性を、常に秘めているその過程そのものや運動そのものが正義であるとは、言えそうです。

だから、いつの時代もその連綿とした正義が塗り替えられる可能性がしっかりと担保されている状態こそが、正義なのでしょう。

ゆえに「表現の自由」という権利自体も、ものすごく重要になる。絶対的な正義なんてものが、そもそもこの世には存在しないからです。

あの有名なカール・ポパーの科学の定義、反証可能性の話にも似ているお話ですよね。

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また逆に、理想の状態というのはすでに満場一致ですでに明確に決まっていて、でも絶対にそこには(僕らが生きている間には)たどり着けない可能性が高いという類いの理念もある。

たとえば憲法の中に出てくる「戦争放棄」なんかは、非常にわかりやすい例かと思います。

戦争がない世の中のほうがいいというのは、人類全体が共有できる数少ない理念だとは思いつつ、でも実際問題として、戦争は起こってしまう。

21世紀の現代になっても、世界中でわかりやすい戦争が繰り返されてしまっています。

だから「戦争放棄など掲げてみても、そんなものは机上の空論だ!もっと現実をみろ!」という批判というのも、ごもっとものように思える。

でも、この点、カントの「統整的理念と構成的理念」の話は、僕らに「本当にそうなのか?」と考えるきっかけを与えてくれると思っています。

政治学者・中島岳志さんが、これについてとてもわかりやすい解説を以前語られていたので、ウェブマガジン「マガジン9」の「9条と「絶対平和主義」をどう考えるのか」というインタビュー記事からここで少し引用してみたいと思います。

    絶対平和主義、あるいは今の形の9条において、可能性があるとしたら、メタレベルにおいてだと僕は思います。つまり、カントの言葉でいう「統整的理念」です。絶対に実現しないけれども普遍的なある理念を掲げることで、そこから自分と自分たちの社会を逆照射し、それに近づこうとする意志を持つことができる。実現不可能な究極の目標みたいなものですよね。カントはその統整的理念と、一般的な理念(=構成的理念)を区別したわけです。それで言えば、平和を守るためにはこうすべきだというベタな理念と、絶対平和主義というメタの理念は違う、ということです。
    柄谷行人さんと議論したときにも、「9条がベタなレベルでの理念として実現できるとは思ってもいない」という話になりました。しかし、それを統整的理念として掲げることによって、現実を批判し続けるための指標にできるのではないか、と。そのような方向に向けて、永遠に努力し続ける営為こそが重要なのではないか、ということです。それがおそらく今の9条の持つ可能性であり、意義かもしれません。

引用元:


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さていかがでしょうか。

この二つの区分け、その考え方というのは、僕らに本当に大切なことを教えてくれていると思います。

僕は、このような絶対到達不可能な目標や理念のことを、個人的にはいつも「北極星」のような存在と呼んでいます。

ひとつのたとえ話ではありますが、僕らが地球という星のうえに住んでいる以上、どれだけ北極星の方角を目指して歩き続けたとしても、その北極星自体には絶対にたどり着かない。

それはもう明白な事実です。

だから向かう方角としては、北極星の方角のほうが正しそうだと思っていたとしても、「あの北極星を目指して歩こう」というのは「どうせたどり着かないのだから意味がないだろう」と諦めてしまったり、歩みを止めてしまったり、はたまた別の方角に進んだりするほうが、正解のように思ってしまう。

でも、実際にたどり着くという、その「結果」だけが本当に大事なことなのでしょうか。

逆に言えば、たどり着かなければ全く何の意味もないのでしょうか。

そんなことないですよね。

僕は、その北極星の方角を一心に目指して、道には迷わない、まっすぐに歩いていけることそれ自体にすでにものすごく価値があると思うし、その「プロセス」こそが、たどり着くという「結果」よりも、大事なことなのではないのかなあと思うのです。

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実際、そうやって、歩いても歩いても、結局のところは、地球をぐるっと一周するだけ。

でも、その一周には間違いなく価値があると思うのです。

北極星を目指して歩み続けた人たちがいたという事実、その足跡は、絶対に消すことはできないはずだからです。

そして、そのような足跡を見て、技術革新が進んだあとの後世の人々は、本当に北極星を目指して、実際に北極星の本体にたどり着いてくれるかもしれない。

いつか、そうやって僕らの何世代もあとの世代が、本当に北極星自体にたどり着くかも知れない可能性は、人類の歴史が続いていく以上は、決してゼロではないわけです。

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この点、逆に言えば、僕らも、そんな太古の昔の人々が掲げた「統整的理念」のうえにすでに立っている。この奇跡にも、ちゃんと感動してみたい。

何千年、何万年も前の人たちが、そんなものは絶対に不可能だと思われてきたことを、それでも、彼ら・彼女らが統整的理念を掲げながら、そのバトンをつなげてくれて、構成的理念という石を現実の世界に積んできてくれたからこそ、今がある。

だからこそ僕らは、これだけ恵まれた奇跡のような世界にいま生きていることができているわけですよね?

今現在、僕らはすでに、そんな思想家や哲学者、宗教家のひとびとが掲げてくれた「統整的理念」のうえに立っているんです。

それって本当に凄いことじゃないですか。僕は奇跡的なことだと思います。

この贈与をはっきりと自覚することさえできれば、次の何千年も先の未来に対して、自分たちが贈与できる価値というものも、自然と見えてくるはずだと思うのです。

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何千年後にはもしかしたら実現できているかもしれない、その一歩をいま自分たちが踏み出すということには、ものすごく価値があると思う。

自分たちの世代で到達できないのだから、それには意味がないという現実主義は、あえてこういう言葉の使い方をしますが、あまりにも味気ないと思いますし、それにはロマンがないと僕は思います。

そんな悲観的に世界を眺めて生きていても、つまらない。

それよりも、統整的理念を掲げた上で、いまの自分ができる構成的理念を日々淡々と実行し、その石を着実に積み上げていきたい。

そんなバトンを繋いでいくような生き方を、これからもしていきたいなあと僕は思います。

そして、そのような状態とは何か、それを日々考えて、問い続ける場というのが、このWasei Salonという空間にしていきたいなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。