最近、『タモリと戦後ニッポン』というオーディオブックを聴きました。

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これを聴き終えて、いま強く思うのは、僕らがよく知るタモリさんは本来、デビューした当初は「まじめ」で「重たいもの」のカウンターだったということ。

でも、平成という時代に青春時代を過ごした僕らは、何かタモリさん的な「不真面目さ」をメインカルチャーや正統派のように捉えてしまっているフシがある。

でも、誤解を恐れずに言えば、やっぱり「タモリ節」というのはカウンターとしてこそ輝くものだと思うのです。

インターネット上であれば、糸井重里さんの一連の活動なんかもまさにそう。

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でも僕らは、それがメインカルチャーだと捉えて勘違いをしてしまっている世代と言えそうです。

僕がいつも語る「この時代に遅れてやって来てしまった」というのは、そういうこと。

ほかにも例えば、僕が長年追ってきているファッションの分野において、ロゴものやストリートがいまやハイブランドの「アイコン」となってしまっているけれども、これとかもなり似たような現象だなあと感じます。

ハイブランドが、いまのようなご時世でもなんとしても生き残ろうとして、ストリートやSNSのインフルエンサーを飲み込んだ結果なのだけれども、ストリートというのは本来、ハイブランドの正統派があってこそのカウンターとして、ストリートであったはずなのです。

このように、ファッションでも音楽でもエンタメでも、この不真面目なものがメインカルチャーとして存在してしまっているアンビバレントな状況に、僕はいつも強い違和感を抱いてしまう。

養老孟司さんの言葉を借りると、なんだか「逆さ眼鏡」をかけさせられているような状態に感じてしまうのですよね。

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だからこそ、いま「真面目」の復興が、とっても大事だと思っているんです。

それは、「真面目」こそが大事だと思うからじゃないですよ。

真面目がちゃんとカウンターされるためにこそ、真面目が必要だと思うからです。

それが、最終的に到達するべき「遊び」への踏み台にもなっていくのだから。

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この点、最上位概念が「遊び」であり、その境地に到達しようとしていることは、西洋哲学も東洋哲学も似たような結論に達しているかと思います。

ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」の話や、ニーチェの小児の話、そして老荘思想の逍遥游の話なんかが、まさにそれに近い。

ただ、やっぱりそのような「遊び」の概念は、真面目のカウンターとして認識するから生まれてくる概念だと思うのですよね。

ニーチェの話を借りると「ラクダ→獅子→小児」という段階を踏むことは、思いのほか重要で、きっと僕らのような一般人というのは、この段階を踏まないと気づけない。

小児的なものは、ラクダから獅子を経由した先に、はじめて生まてくるもの。

言い換えると、ラクダから小児に一気にフロッグリープはできないのだと思います。

現代を生きる僕らは「小児」のような振る舞いだけを見せられて、ラクダと小児の共通点ばかりを探ってしまう。

それが、タモリさんの以下の名言、

・真剣にやれよ!仕事じゃねぇんだぞ!
・仕事に遅刻してくるやつは許せるが遊びに遅れてくるやつは許せない。


みたいな言葉を、何度も何度もテンプレのように繰り返し印籠のようにかざしてしまう文化を、ネット上に生みだした原因でもあると思います。

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さて、このように「まじめ」とは何かを考えている中で、並行して最近また夏目漱石についていろいろと調べていたら、夏目漱石は何度も自身の作品の中に「まじめ」という言葉を用いていたそうです。

そして、吉本隆明は、そんな夏目漱石を「暗い立派さ」だと称していました。

『読書の方法~なにを、どう読むか~』という本から、以下で少し引用してみたいと思います。

漱石とは何か?    それは「暗い立派さ」だ。この感銘はそのあと『坊っちゃん』をさがしてきて読み、『三四郎』を読みというように、漱石の作品をたどってゆく原動力になった。暗さだけでもだめだったろうし、立派さだけでもだめだったろう。何ともいえない魅力はこのふたつが合わさって成り立っていたのだ。


ここで言う立派さとは、まじめと言い換えることもできるかと思います。

この点、漱石の文学が、100年以上ずっと読まれ続けているのは、そこにクソ真面目から生まれる「悩み」みたいなものを、ずっと鬱々と抱えているからじゃないでしょうか。

つまり、そんな「クソ真面目」であることが大事だったんだと思うのです。

不真面目とクソ真面目、その矛盾することが相対してはじめて「遊び」が生まれてくる。

この世界にそれらが同時に存在して初めて陰陽のバランスが保たれると言えば、わかりやすいかなあと。

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でも、一方で現代は、真面目そうなものが少しでも不真面目に逸脱しようとすると、その揚げ足取りが必ず始まります。

そして必ず、炎上させられる。

真面目側のひとたちは、不真面目であることを絶対に許さない。

不真面目さが少しでもあった時点で、村八分にしないと気がすまない。具体的には象牙の塔から追い出そうとする。最近の成田悠輔さんの世界を巻き込んだ大炎上なんかは、非常にわかりやすい出来事だったなあと思います。

つまり「分際をわきまえろ」っていうことなのだと思います。

でも、そうじゃないでしょう。

不真面目というテーゼに、クソ真面目というアンチテーゼをぶつけて「遊び」に止揚する。このあわいの探求が、いまとても大事だと思うのです。

ちなみにこの「あわい」という表現は哲学者・東浩紀さんが、『ゆるく考える』という本の中で語られていたお話です。

以下で少し引用しておきます。

たとえば深夜、仕事で疲れてへとへとになった帰宅の電車で思想書を開こうとしても、多くのひとにとってはむずかしいわけです。しかしミステリならば読める。娯楽性の有無は、端的にそのようなちがいとして現れます。     
    現在のコミュニケーション環境においては、まじめな言説をまじめなものとして流通させるのがむずかしい。したがって、思想や批評は(あるていど抽象的なことをやりたいのであれば)、自らがふまじめなものとして消費される可能性を含みこみつつ、まじめさとふまじめさのあわいでテクストを生産するほかない。そしてそのためには、前提として、まじめな読者だけではなく、内容をまともに理解してくれない「ふまじめな読者」こそを摑んで離さない、そのような力をテクストに宿さなければならない。


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このお話は本当に同意です。

僕らは、この世界に自分たちが遅れてやって来てしまった結果、無意識にかけさせられてしまっているこのような「逆さ眼鏡」の存在を正しく認識しなければいけない。

僕が毎日配信しているVoicyは「難しくて、堅苦しい」などなど「真面目すぎる」と言われてしまうことも多いのだけれども、このような問題意識を抱えているからこそ、そんな真面目要素をVoicyやNFTという世間一般的には不真面目だと断罪されるようなネット上の世界で、突き通しているんだろうなあと思っています。

もちろん、僕の中にも不真面目さの部分はたくさん持ち合わせている。でも、それを無駄に肯定してくれるコンテンツはもう腐るほどインターネット上に転がっている。

そのようなコンテンツだけを見ていても、真の「遊び」に到達するためには絶対につながらない。

誤った世界認識をさせられて一生幻影を見続けて生きることにつながるだけでしょう。それはまさにプラトンの「洞窟の比喩」みたいなもの。

だからこそ、これからもカウンターとされるための真面目さを淡々と発信していきたいなあと思っています。その「あわい」とは何かを常に意識しながら。

今日のお話が、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。