文章で何かをひとに伝えようとする場合、自分の中でまず明確に意見がなければいけません。

もちろん、実際に書きながらそのメッセージを発見していくことはできるけれど、それでも書き上げるタイミングでは、必ず何かひとつでも、自分の意見が明確になっていることが求められます。

一方で、音声で何かをひとに伝えようとする場合は、文章では書けないことでも伝えることができる。

なぜなら、音声の場合は、自分の意見が不明瞭な状態であっても、一声ずつ「しゃべり上げていく」ことができるからです(そんな日本語はありませんが)。

ゆえに、何かを書き始めるってものすごくハードルが高い作業である一方で、目の前の相手と何かをしゃべり始めるってことは一気にハードルが下がるわけですよね。

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たとえば、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』という書籍を読んで、自分の意見を他者に伝えようとするとき、この本の書評なんてなかなか書けるものではありません。

センシティブな内容が書かれてあるだけに、いろいろな立場のひとたちの顔が頭に浮かんでしまって、自分なんかの素人が書評なんて大それたものを書いてはいけないという自己規制が勝手に始まってしまうひとが、世の大半だと思います。

でも音声であれば、なんとか「しゃべり上げていく」ことができる。自分が感じたことをポツポツと語り始めて「どうして私がこの本を他者に強く伝えたいと思っているのか」を少しずつ言語化していくことができる。

そのようにして実際に、僕とF太さんが対話を通じて「オーディオブックカフェ」内で『夜と霧』を紹介した回がこちらです。

‎オーディオブックカフェ:Apple Podcast内の#16    「夜と霧 新版」折に触れて聴く名著を今こそ/V・E・フランクル著

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そして昨夜、Wasei Salon内でも『夜と霧』の読書会が開催されました。

参加したみなさんがそれぞれに、自分のなかにあるまだ言葉にならない言葉をゆっくりと語り始めてくれました。それは本当にどれも貴重なお話ばかりで、至極個人的な体験なんかもいくつか語られていました。

誰の意見というわけでもなく、そこから深まっていく対話の数々。読書会前に、自分が話そうと思っていなかったことまでがドンドンと出てきます。

このような状況になっていくためにはやっぱり、このひと(たち)なら聞いてくれると思える他者が自分の目の前にいることがなによりも重要になってくる。

「このひと(たち)なら、ちゃんと誤解せずに最後まで聞いてくれるはずだ」という期待が先に存在するからこそ、言葉にならない状態のものを場に出すことができる。

「あなたがそれを差し出してくれるのであれば、こちらはこれも差し出すよ」というように。

しかし、その場で誤解される可能性や略奪される可能性あれば、すぐにひとは口を閉ざすはずです。(もしくは当たり障りのないやり取りで、その場をやり過ごす)

だとしたら、まずは「関係性の構築」のほうが大切なのではないか。交換が正しく行われるはずだという「信頼」の担保が存在しない市場が、市場としてまったく機能しないように。

そのような仮説のもと長い時間をかけてゆっくりと耕してきたのが、このWasei Salonという対話型コミュニティの場です。

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他者に自分の話を聞いてもらえるということ、そして自分が責任を持って他者の話を聞く側にまわるということ。

この両方の責任をしっかりと各人が引き受けることで、すでに参加者同士の間で「交換」が行われているように思います。

金銭や商品なんかが介在しているわけではないけれども、明確な「責任」が発生していて、それは負債のようなネガティブなものではなく、原始的な交易(コミュニケーション)そのものになっている。

他者に対して「話す」ことと「聞く」ことは本当に奥が深いなあと思います。いくら考えてみても、考え尽きることはない。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。