ここ数年で、一気に耳にするようになった「アンラーニング(アンラーン)」という言葉。

日本語では「学習棄却」と呼ばれ、これまで学んできた知識を捨て、新しく学び直すことを指していて、激しい環境の変化に対応するためには、新しい勉強を進めるだけではなく、従来の知識を捨てることも重要だとされているようです。

僕の勝手なイメージだと、近年「認知バイアス」や「メタ認知」という言葉の重要性が語られるようになってきたことと同時に、世間に浮上してきた言葉のように思います。

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この点、確かにアンラーニングは非常に重要な概念であることは間違いないと思うのですが、とはいえ、この言葉には大きな落とし穴も存在するように思います。

具体的には、まるで知識や価値観が埋め込み型のブロックのように、パコッとはめたり外したりできるように捉えられていることが問題なのかなと。

このような認識は、僕らが間違いなくスマホに慣れ切ってしまったことが原因でもあると思います。

現代に生きる人々は、自分自身をスマホの本体のように見立てて、自分の中にある知識や価値観をスマホ上のアプリのようにインストールしたり、アンインストールできるような感覚をもってしまっている。

でも実際のところは、僕らの知識や価値観って、もっともっと複雑に絡み合っていて根深いものだと思うのです。

喩えるなら、落とすのが非常に難しいカビのようなもの。

見えている一箇所だけではなく、人間がそれを明確に発見できるタイミングにおいては、深く深く根を張り、空間全体に影響を及ぼしているというような。

つまり、自分たちが大切だと思っている価値観そのものにも強く影響を及ぼしてしまっているということです。

むしろそのカビ自体が「大事な価値観」そのものだったりする。「発酵」と「腐敗」が完全に表裏一体であるように。

参照: 腐敗の原因となる構造を破壊することだけが正しいのか?

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その具体例が、先日も書いた悪しき「儒教文化」の影響です。

参照: 儒教文化の破壊は、悪魔殺しであると同時に、神殺しでもある。

儒教文化の悪い部分(圧倒的に無意味である、もしくは社会的に弊害があると僕らが感じる部分)というのは、僕らがこれからの時代において大切だと思っている「敬意」と完全に表裏一体をなしている。

それをどうやって悪い部分だけを取り除き、時には良い部分も同時に捨て去りながらに、再度獲得・構築していくのか。

それは、「アンラーン」なんて軽々しい言葉で語られるような所業ではなく、「神殺し」そのものだと僕は思います。

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この圧倒的な難しさを理解せずに、ビジネスセミナーなどで「アンラーニングしましょう!」と言ってみたところで、また同じ過ちを繰り返すだけなのではないでしょうか。

そして、この価値観の変更(アップデートが必要な)サイクルは、どんどんと早くなっていくのは間違いないのだから、世代ごとの教育格差は広がるばかりであって、社会の中での「分断」や「偏見」はより一層広がる一方だと思います。

つまり、偏見や分断をなくそうとして、現代社会で広まり始めている「アンラーニング」という概念自体がそもそも、その分断や偏見を加速させる役割を担ってしまっているのではないかと、僕は思うのです。

この事実に関して指摘するひとが意外と少ないなと思ったので、今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにも、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。