一般的にコミュニティ運営をするときには、どうしても会社や学校の常識を踏まえて、能力が高い人を集めようとしがちです。
でも、7年間コミュニティ運営してきて思うのは、決してそれはいい選択ではないということです。
むしろ、能力が低い人を排除してはいけない。
能力が低い人がいるからこそ、そんな彼らを世話をする人たちも必ず現れてくる。
この助け合いの「余白」のようなものがあることは、コミュニティや共同体において、とても大事なことをだと思っています。
今日はそんなお話です。
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この点、自分の漠然とした感覚に対してとてもハッとした気づきを与えてくれたのは、以前もご紹介したことがある養老孟司さんと久石譲さんの対談本『脳は耳で感動する』という本の中で書かれていた養老さんのお話です。
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養老さんは、若い頃精神科の病院にいたことがあったらしいのですが、その中に二十歳ぐらいの女の子が、自分で着物を着ることもしないし、ものも食べられない。ボーッと立っているだけだったそうです。
そうすると、患者さんの中で調子のいい人が寄ってたかって面倒をみるらしいのです。それをみて養老さんは「ああ、ちゃんと支えてやろうとしている、と感動した」と。
一般社会に適応できない人にもそういう程度の差のようなものがあって、できない人がいると、必ずそれを面倒みる人がいる。
養老さんは「それ以来、人間社会をある意味、楽観的に見るようになりましたよ」と語っていてとて、なんだかとてもハッとしました。
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また、同時に学校の中のダウン症の子の話も語られていて、こちらも強く腑に落ちるものがあったで、以下本書から少しだけ引用してみたいと思います。
僕らの小学校の頃は、知的障がいの人も一緒に同じクラスにいましたからね、たとえばダウン症の子がいた。だけど、その子が排除されていたかというと、そんなことはない。やっぱり誰かがちゃんと面倒みていた。誰がやっていたんだろうと考えてみると、クラスでいつもビリの方にいたやつなんだ。自分よりももっとできないやつがいると、その面倒をみてやらなきゃ、というメンタリティが働く。そういうアナログな構造があるんです、人間には。ところが、今は、この人は障がい者だと認定すると別枠にしてしまう、あれはデジタルな発想ですよ。とても非人間的な感じがするね。
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この話は、共同体をつくろうとするときに、とても大事な視点であるように思います。
もしも一緒に行動をしていれば、お互いの苦手を補い合いながら、ともに助け合うという行為を通じて、お互いの役割や居場所を与えあっていたかもしれない。
にも関わらず、一般的に能力が低いとみなされているひとたちを排除してしまうと、働きアリの法則と一緒で、また中間のひとたちが一番下に落ちて、そのひとたちが助ける相手もいなくなり、自尊心なんかも潰れてしまう。そうなってしまうと、本末転倒だなと思うのです。
もちろん、そんな競争の世界では、相手を蹴落としてでも自分が這い上がろうという思考なんかも働きやすい。
相手を助けるのではなく、相手を引きずり落とすほうが、自分の居場所を死守するという意味では最適解だと誤解しやすいですし、そんな価値観が蔓延っているのが、現代社会の組織の特徴だとも思います。
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それゆえに、コミュニティを作る時本当に気をつけなければいけないことは、「助け合おうとしないひと」をいれないことのほう。
しかも、その人間が能力や生産性が高いからという理由でいれてしまうと、余計に厄介です。
そうすると、そこに必ず搾取構造が生まれてくる。弱肉強食の原理や、市場原理が働いてしまう。
「それが世界なんだ!」という話なのかもしれないけれど、社会と同じ原理が働いてしまうなら、わざわざコミュニティなんかつくる必要もないわけですからね。
たまたま、現代の市場原理の中において能力が低いひとというのも、むしろ、その人がいることによって他の誰かに居場所を与える役割を果たしてくれる。
当然、そんなふうに能力が低い人とみなされるひとにも、能力が高い人以上に別の価値を必ず内包していて、キラッと光るまっすぐさや、良くも悪くもな人間らしさなどがまた、能力があるひとにとっては眩しく映り、良い影響を与えたりもする。
その相互に影響を与え合うような、循環構造を作り出すことのほうが大事だと僕は思います。
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そして、そのときには、あえて運営としては見放すような冷たい目線も大事になってくる。
なぜなら、その結果として「自分がフォローしないと!」と思う人が出てくることになるからです。その当事者性を大切にしたほうがいい。
他者に手を差し伸べるという慣習や文化をつくりだすことのほうが、結果的に良い結果を生み出すなあと感じています。
言い方を変えると、ここで名指しをして世話役のような役割分担をしないっていうのも、ものすごく大事だなと思うのです。
どうしてもコミュニティ運営をしていると、この役割分担を明確に定めたくなってしまう。
でもそれだと、やっぱりダメなんですよね。世話をする役割を義務化すると、支援行動が「仕事」や「負担」と化してしまう。
そこでグッとこらえて、むしろ何が大事なのか、なぜお互いに手を差し伸べ合うことが大事なのか、その根底からの理解を促して、ずっとその重要性を説きながら、文化を醸成し、それぞれに惻隠の情のようなものが発動しやすい現場をつくっていくことなんだろうなあと。
本人が自発的に動いた、ということにこそ価値があるはずですから。
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一般社会における「生産性が高い」や「優秀である」といった画一的な社会の価値観とはまた別の価値観軸で駆動する空間を積極的につくりだすこと。
そうすることで、従来的な価値観の中で能力が低いと切り捨てられたひとは「助けてもらって、ありがとう」と素直に言えるわけですし、助けた側も「自分はひとの役に立つことができる」と自尊心が増す。
こうやって参加者全員がグルグルと巡りながら、それぞれがそれぞれに受益者になれる状態をつくりだすことにこそ、コミュニティの価値はあると僕は思っています。
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でも、繰り返しになりますが、市場経済によって生産性ばかりを求められて、コスパ至上主義になると、組織の生産性に対して寄与しないやつから首を切れ、という話なる。
そして、それっていうのは現代ではある程度は仕方ない部分もあると思うのです。
養老さんも本書の中で以下のように続けていました。
乱暴にいうと、会社は社員を丸抱えして終身雇用で、一生それこそ社宅から年金まで面倒みようとしていた。それが昭和的社会。ところが、そういうことができなくなった。それはそうなんです。会社というのはやはり仕事によって成り立っているところですから、そこで丸抱えは無理です。仕事そのもののことを考えれば、無駄なコストになりますから。だから、もともとあった村という共同体をどうやってつくり直すかということなんだと僕は思っています。
現代のような高度な資本主義社会の中では、企業に昭和的社会のように丸抱えは無理だし、それでもそれを無理矢理に基準にすれば、一番ギスギスする原因を生んでしまうのもあたりまえであって。
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逆に言えば、GDPで測れるような「生産性」をものさしにして、優秀かそうじゃないかだけで判断してきてしまったのが日本の失われた30年。
あまりにも、それが「社会全体」の当たり前になってしまったので、ここをどうやって価値観を変えていくのかが現代の一番の問題でもあるのかなあと。
お互いにお互いの居場所を与えあって、なおかつ「ありがとう、助かりました」と素直に言い合って、さらにそのバトンを、次につなげていける、そんなひとたちが集まっているかどうか。
そんな共同体の成員同士であれば、能力の低いひとがお荷物だなんて思わない。
もともと生まれ持って与えられた能力はというは、それぞれがバラバラであって、お互いがお互いの能力を活かしながら、ただただそれぞれの得意で助け合い、共同体として成立していればいいだけなんですから。
もっともっと素直に、お互いに助け合っていこう、となる。そして、その助け合いという行為自体が場の空気も良くしていく。
つまり、誰も「等価交換」や「損得」で考えずに、非人間的な社会から、人間性を感じ取ってもらうことができる、それがこれからのコミュニティの役割でもあると思います。
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実際Wasei Salonも、そうやって巡回しているコミュニティだなあと思います。
個性も能力も、本当に全員バラバラ。
でも、誰ひとりとして「あいつがいるせいで」とは思っていないと思うし、むしろ誰かが困っていて、なおかつ自分が手を差し伸べられることであれば、率先して助けよう、と真摯に思ってくれているたちが集まってくれている。
これは本当にありがたいことです。僕はこの循環をこれからも丁寧につくり出していきたい。
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そして、「自分は自分、他人は他人」と切り捨ててしまうひとを、できるだけコミュニティには参加させたくない。
他者への寛容さの意味を履き違えて、包摂ではなく、ただただ放置しておくことが善だと思っているひとを、決して参加させないこと。
コミュニティの本当の価値は、「自発的な相互扶助の文化」にあると僕は信じています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。