昨日のVoicyの中で配信した「俺たち、若輩者?それとも not 若輩者? 」の対話会。
その最後のほうで話題になっていた、「俺は俺だ」という確固たるアイデンティティを持つような生き方が、逆に現代では「苦しみ」を生んでしまっているんじゃないという話が、個人的にはとてもおもしろかったなあと思っています。
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改めて僕の補足も含めてこの話を整理し直してみると、
現代は、個人主義で「俺は俺だ」が認められるような時代。好きなことをしてあなたのアイデンティティで生きていくことを奨励してくれたのが、過去15年ぐらいの世の中です。
社会や共同体の中で求められる役割、その画一性からやっと解き放たれて、それぞれの多様性が重視され、ものすごくわかりやすいユートピアのような世界が広がりました。
でも、当然15年ぐらい経過してくると、当時の自分が理想としていた「自分」と「今の自分」が少しずつ乖離してくるわけですよね。
20代のひとは30代になっているわけで、自分の年齢は変化し、心も身体も少しずつ移り変わってくるわけですから。そして、当時の自分と、今の自分は本当はまったく別の自分であるはず。
でも、あの瞬間においては、「俺は俺だ」として、どこに行ってもそのキャラクターを貫き通してきてしまったが手前、そのように振る舞うとことが、自分の中に無意識のうちに課せられる課題にもなってくる。もちろん、周囲だってそんな個性やキャラクター性を強く望むわけです。
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でもそうすると、結局のところ、より一層いまの自分の心と身体の変化に対して、うまく折り合いがつかなくなってくる。
これは逆にいえば、昭和や平成までは、その人間の一般的な年齢による変化も踏まえて、各共同体ごとに「20代はこんな感じ、30代はこんな感じ」とある程度の年相応の変化のガイドラインも存在したわけです。
そして年齢を重ねていって、心と身体の変化によって自己に迷ったら、その先人たちが用意してくれた入れ物にただただ乗っかればよかったわけですよね。
でも、現代はそれが完全に崩壊してしまった。その入れ物を自分たちの手で壊してしまったわけです。
個人主義によって「年齢に応じた入れ物(成熟モデル)」が壊されてしまった結果、現代に生きる僕らは「成熟した大人の立ち振る舞い」とは一体何かがいよいよ分からなくなってしまいました。
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そして、そのような世界の中で、それでも「俺は俺、私は私」を貫いているひとたちというのは、どこか妖精みたいになっていく。
妖精がわかりにくければ、ゆるキャラみたいな人でもいいです。
どこにいってもそのひとで、とにかくそうやってキャラクター化して振る舞う人。
たとえば、本名よりも、社会的なあだ名や愛称のようなものがあるひとは、わかりやすいかと思います。
本名とは別に、カタカナの相性を持たれている方は、そういうキャラが浸透しているひとだなと思います。
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もちろん、それで本人自身が満足しているのなら、全く持って問題ないとは思います。
自分の意志によって、振り切っているわけですから。そうなったら、いつも言うように、「死ぬまでやったれ、猿芝居」です。
でも、それはそれで非常に困難な道でもある。そして、みんながみんな妖精になれるわけではない。
周囲からも期待されて、その人の知られている個性と同等か、それをちょっとでも上回る話を常にしないと飽きられる。
だから少しずつ過激化もしていく。本人自身も気づかないうちに、つけすぎた香水みたいになっていく。
それは、味の濃い調味料みたいな感じでもあって、いつだって全部がソースの味とか、全部がケチャップの味とかになってしまう。
子供の頃は、そんなわかりやすい味を、自分自身も望んでいて大好きだったけれど、大人になるにつれて自分の中の美意識や価値観、味覚なんかも変化して、その味じゃないものを求めているのだけれど、「俺は俺だ」を貫いた手前、別の選択肢も提示できなくなってくるジレンマがあるわけですよね。
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このように、気づけば思わぬ形で、自らが成熟をしてきて「ソレだけではないのではないか…?」という問いが、自分の中で芽生えてくる。
「俺が俺が」ではなく、周囲をもっと引き立たせるような美学が、自分のなかにじわじわと溢れ出てきたときに、良くも悪くも「個人主義」の限界のようなものが見えてくる。
そして、あれほど憎んでぶっ壊してきた共同体主義の良さなんかも同時に実感する中で、いよいよ社会の中での立ち振舞いがまったくわからなくなってきた、というのが現代人が陥っているひとつの病なんだろうなあと思います。
もちろん、僕もその病の患者のひとり。このように昨日の話の問いの入口、そこから問いの奥にある迷いや葛藤は僕も非常に共感するところです。
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そしてきっとこれはTPOみたいな話でもあって、ファッションとも共通する話題でもあるなあと思うんですよね。
妖精的なひとは、全身コムデギャルソンとか、全身ヨウジヤマモトみたいな格好をしていたり、もしくは年中パーカーを着ていたりする、みたいな話だから。
少なくとも何かその人を特徴づけるアイコニックなアイテムが必ずあって、公の場では、それを必ず身につけている場合が多い。それが、その妖精やゆるキャラとしての合図にもなるわけです。
でも、それがカッコよかった時代はもう終わりを告げようとしている。
というか、それだけが「スタイル」じゃないし、決してそのあり方を否定したり批判したりするわけではないけれど、自分が選びたいスタイルはそれじゃないって人が徐々に増えているのが、まさに今だと思います。
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で、これって、まさに先日の「めんどうくさい」の話にもつながるなあと思います。
養老さんのように、年相応に美しく枯れていくためには、それまでの自分の中にあったのにも関わらず、年齢を重ねて欠如したものや劣化したもの、その負の側面だけで捉えすぎないこと。
とはいえ、一方でこれまでの社会の基準としての「年相応の価値基準」に戻ればよいというわけでもないから厄介です。
つまり、もう昔ながらの成熟のあり方は、今の時代には通用しない。
その基準点もなくなり、行く現場によって求められる自分が、その場その場の空気や雰囲気によってクルクルと変わらざるを得なくて、そうすると自分とは一体…?と自己を見失いがちになるんですよね。
一方で、ただ新しさを追い求めて、常に成長し続ける、新しいことに挑戦し続けるというストイックな生き方にも、息苦しさがつきまとうわけです。特に30代後半〜40代になるとそれが顕著。
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先日もご紹介した釈徹宗さんの「自己の中の幼児性を、成熟させる。」という禅問答のような話も、まさにこの葛藤を言い表しているんだろうなあと感じます。
仏教的に言えば、そもそも自己とは確固たるものがあるわけではないということ。
言い換えると、それは自分のことばっかり考えてみても、意味がないということでもある。
それよりも、新たな形の共同体を立ち上げることによって、それが鏡のような役割を果たしながら、自然と立ちあらわれてくるものでもあるということ。
むしろ、ここの本質というのは、共同体や世間の方にあったと気づく必要があるのが、今の僕らに問われていることなのでしょうね。
ここが今日一番強調したいポイントかもしれません。
だとすれば、そんな場を僕はみなさんと一緒に丁寧につくっていきたい。そうしないと、一生この呪いからは逃れられないわけだから。
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妖精やゆるキャラとしてどこへ行っても「俺は俺だ」を貫くわけでもなく、昭和的価値観に固執するわけでもなく、もしくは、ストイックに自己刷新を繰り返せ!と主張するのでもない。
僕はもっともっと、別のアプローチから、このあたりの葛藤について引き続き模索していきたいなあと思いますし、Wasei Salonはそんなことを共に考えるメンバーが揃っている。
これは本当にありがたいことだなあと思います。
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最後に今日の話をまとめておくと、本当に必要なのは、他者との対話や関係性を通じて、自然に生まれてくる自己の成熟のあり方のほうであり、
それというのは、いつでも変わらない「自分らしさ」よりも「共に生きる他者」を重視し、そこに成熟を見出していくような共同体を作りだすことが、急がば回れで、最重要課題なんじゃないか、ということです。
そんなふうに古くて新しい共同体を自分たちの手で再建していかないと、いつまで経っても、この心のモヤモヤは晴れることはないのだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/03/21 20:38