「人は、既に知っているものの、新しい部分に興味を持つ」という名言を残していたのは、松浦弥太郎さん。

だから雑誌は「あなたの知らない餃子の世界」みたいな特集を組みがちなんだ、と。

この既に知っているものの新しいところを知りたがる、という特性を超えて、ここを飛ばせたい、ジャンプさせたいなと、よく思います。

どうしても人は、既に知っているものに居着いてしまいがちだから。若い頃から馴染みのあるアニメとか、ゲームとか、推し活とか。

特に現代は「失敗したくない、タイパコスパ悪いものには触れたくない」という忌避感というかもはや呪いみたいな感情が強いから、余計に「知らないもの」へジャンプしようとはしない。

それで満足だという気持ちもわかるんだけれど、どうやってそこから新しい世界へと連れて行けるのかを僕は考えたい。

若い頃にハマったものを30代とか40代とかになっても擦りつづけることになってしまうと、じわじわと年齢に合わない趣味に無意識に疲弊してくるし、成熟も訪れない。

その結果、昨日書いたような「年相応の新しい価値基準」も訪れてくれないわけですから。


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この点、何度も語るように「正論」や過度な恐怖を煽るのはダメなのだと思います。

今は、それが「おせっかい」だと思われて、ともすればパワハラ認定される世界であり、もう他者を引っ張って、連れて行くことはできないわけですよね。

また、この文脈でよく「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」という言葉が用いられます。

最終的には、本人の意志で飲んでもらわないといけない、と。

これが他者と相対するときの真理のように未だに語られているけれど、果たして本当にそうなのだろうか?とも感じるんですよね。

本当に、水辺に連れて行くことができるのか。

現代はソレさえもむずかしいんじゃないかと思います。
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じゃあ、どうしてこれまでは、この言葉が真理のように語られていたのか。

それは、昔は共同体に入ってもらいさえすれば、そこに上下関係があって、水辺まで誘導していくことは、否応なしにつれていくことができたから。

で、水辺で、水を美味しそうに飲む素振りをすれば、真似して飲んでくれる。

でも、今はもうそうじゃない。

逆に言うと、連れて行くための手はずだったのにもかかわらず、共同体を私的利用するひとが多すぎて、せっかく先人たちがつくりあげてくれた共同体も見事に崩壊したのが、まさに今です。

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水を飲ませるどころか、水辺につれていくこともむずかしい時代に、どうやって本人に能動的に水辺の水を飲んでもらうのか。

きっと今できることは、むしろ、後ろからついていくような羊飼い的なアプローチなんだと思います。

つまりもう、馬を引っ張るようにして連れいこうとしてもダメなんです。

羊飼いの誘導は羊を引っ張ったり、追い立てるのではなく、自然と羊が向かう方向へ少しずつ誘導する方法であって、お互いのニーズがクロスするポイントを丁寧に探ること。

しかも胆力を持ち続けながら、いつまでも付き合い続ける覚悟を持って、です。

ちなみに、これは余談であり、本当に至極個人的な話なのですが、自分が初めて自分以外の役を演じたのが、僕は羊飼い役でした。

カトリック系の幼稚園のお遊戯会の中で、幼稚園の記憶なんてほとんど何も残っていないのに、羊飼い役をやった記憶だけが明確にあって、今でも、ものすごく記憶に残っていることのひとつだったりします。

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話を戻して、これからはたぶんこの羊飼い的なアプローチに、良くも悪くも、AIが用いられていくはずです。

AIによってもっと、大規模の羊飼い的アプローチが試みられる。それっていうのは、めちゃくちゃダークな形になると思います。

今のAmazonのレコメンドなんかとは比べ物にならないぐらいに、AIを用いてリチャード・セイラーの「行動経済学」の中に出てくるようなナッジに促されていく。

気づかないうちに、欲望さえもコントロールされて、知らない間にテクノロジー会社とその会社に対して広告を出している企業にとって、都合のいいように導かれてしまう。

僕はそういう「闇の羊飼い」みたいな方向性には向かいたくない。

もっと、本人にとってメリットがあるような、本人が自分の「物語」を生きることができるための、ホワイトなものをつくりたい。

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じゃあ、次の疑問は、何がその飛ぶときの信頼の担保となるのか。

そこをちゃんと作り出していきたいなあと思うのです。

ブログや書籍で、腑分けしながら書いてみても「むずかしい、よくわからない」と遠ざけられる場合に、それをどうやって伝えるのか。

ひとつは、継続的な音声配信のタッチポイントをつくることは大きなことだと思う。

興味があるものとないものを混ぜ込みながら、少しずつ好き嫌いをなくしてもらい、思えば遠くへ来たもんだ、となるように。

ハンバーグの中にみじん切りにしたピーマンを混ぜるみたいな話です。

例えば、コテンラジオなどは非常に良い事例だと思います。

これまで全く興味がなかった歴史上の人物を、コテンラジオという番組への信頼を担保にしながら、新たに知ってもらう。最近だと伊藤野枝特集なんかは非常にわかりやすい。

そうやって連れて行くことができる方法を探ること。こうした穏やかで長期的な「伴走」はまさに羊飼い的だなあと思います。

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あとは、物語のつくり方と、そんな物語が続いていく、こと自体を共有する。

Wasei Salonで言えば「問い続ける」という行為価値それ自体を、理解してもらうこと。

「わたしたちの”はたらく”を問う」じゃないんですよね。

一回限りのイベントで同じメッセージは発信できるけれど、でもそれだと本当に共に向かいたい場所には導けない。

そうじゃなくて「ほら!お互いにゆるやかに継続的に繋がり続けて、時間のもつ力は、すごいでしょう?」と、論理ではなく、時間の経過で体感してもらうことが大事なんだろうなあと。

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とにかく、相手に飛んでもらうために、後ろからついていくような形で、あの手この手をつくしていくのが羊飼い的なアプローチ。

あと、最近僕が興味があるのは相手に飛んでもらうために、どこまでの手段が許されるのか?その「程度問題」も気になるところ。

当然「嘘も方便」も必要になってくるわけですから、どこまでの嘘や、相手にとって一見するとネガティブにな事象も許されるのか。

仏教のさまざまな宗派に分かれていることそれ自体が、先人たちの苦労の証であり、さまざまな試行錯誤の結晶でもある。だからこそ、宗教的なアプローチには敬意を払いたい。


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でも、どうしても「嘘も方便」は終わりよければすべて良し、だと思いがち。

一方で、昨日もご紹介したジェーン・スーさんエッセイ集『おつかれ、今日の私。』の中に頭をガツンと殴られるようなエピソードが書かれてあった。

僕なりに簡単に要約すると、絶対に挑戦したほうが良いのに自分の自信のなさから日和ってしまうような仕事の依頼に対して、ウジウジと悩んでいたら、当時付き合っていたパートナーの方から、「ここで決断できないような子は、好きじゃないな」と言われて、嫌われたくなかったジェーン・スーさんは「じゃあやる」と言ってしまったのだ、と。

そして、そのおかげで、キャリアは一気に広がったので、その点では本当に感謝しているけれど、愛情と引き換えに、やりたくないことをやらせるようなもの言いは間違っている。15年越しにその違和感の正体に気が付けた、という話が書かれてありました。

そして、結論としては、「感謝と怒りは共存する」という話で締め括られていて、なるほどなあと唸ってしまった。

ウェブ上でも全く同様のエッセイが公開されているので、気になる方はぜひ読んでみて欲しいです。


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ここにも、きっと客観的な正解はない。あとは本当に価値観と倫理的な課題の問題。

ここで大切なのは、その苦しみや葛藤が「羊飼い」としての誠実さ、つまり誘導する側への深い「責任感」や「敬意」に根ざしているかどうかです。

「怒り」や「違和感」そのものは排除すべき感情ではなく、むしろ相手を本気で誘導しようとする人間の真摯さの現れである場合もあるはずで。

そして絶対に忘れてはいけないのは、それは徹頭徹尾、その「方便」を受け取る側の認知の問題。つまり導く側ではなく「相手がどう感じるか」という話だと思います。

だからこそ、丁寧なコミュニケーションも求められる。もちろん、その瞬間だけの話ではなく継続的なつながりによって、その日々の関わり合いの中での一挙手一投足が、その信頼を構築する土台となるはずで。

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最後にまとめると、信頼をベースに前から引っ張るのでもなく、欲しいものを擬似的に与えて釣るのでもなく、無理なく後ろから自然と誘導する。

その人自身が自然に歩き出すような環境やタッチポイントを探り、その人自身の物語を尊重し、常に相手の選択に対して敬意を払う。

問い続ける価値そのものを伝えながら、相手が自発的に問いを立てられるように促す。そのような一連の流れを構築することが、いま本当に重要になってきているなあと思います。

Wasei Salonもそのような場としてこれからも継続していきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。