最近、よく思うことのひとつに、何か境界線を定められたら、必ずその境界線の外に出たいと願う、それがアイデンティティである人間がこの世の中にはいる、ということがあります。
彼ら・彼女らの要望はいつだって「あなたたちマジョリティ側が引いた境界線の内側に私はおさまりませんよ」といことであって、つまり「あなたたちの理解力、定義のなかに私は定まらない」という一貫した感情。
でも、その欲望をそのまま伝えると、一体何が望みなのかは、一般人にはわからない。
ゆえに「境界線の外を、境界線の内側に包摂せよ!」という要望に見えるようにしつつも、その奥の奥にある感情は、境界線の内側に包摂されず、その境界線の外側に出ることをいつも望んでいる。かつ、その外側が世界から認られることを強く望む。
わかりやすいのは、宇宙に出たがる人間の本性みたいなもの。
それは地球という境界線があるからこそ、生まれる欲望でもある。
かといって彼らの欲望は、宇宙で好き勝手やりたいということかと思えば、地球にいる人たちに対して、宇宙の存在を認めさせることでもあるわけです。
これがありとあらゆるマイノリティにも言えるなと。
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つまり、自分のアイデンティティの問題には、自分が求めている客観的な真の一点、そんな本質やイデアがあると思うけれど、それっていうのは、逆説的に「社会の境界線」が規定しているものがある。
もちろん、イデアのようなものがあって、それが社会の境界線の内側に包摂されることを一貫して願ってやまないというマイノリティの人々も当然存在しているとは思うけれど、
でもそれと同時に、一定数は必ず、その動機が「境界線の内側に包摂されないこと。外側に出て、それを内側に認めさせること」という人達がいるんだと。
これはなんだかとてもハッとする気づきでした。
そして、僕にもその気持ちは少なからずよく分かる。
というかそれが、人類が長いあいだ挑戦し続けることができた「フロンティア・スピリッツ」そのものだとも思います。
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そして、今の選挙なんかもまさにそう。
「ないもの」にするから余計に、外の世界に対する興味関心が生まれてくる。それが結果的に、世界の陰謀論などを掻き立ててしまう原因にもなっているなと思う。
これは、先日も書いた「理解」の話と全く一緒。
言葉を用いて、概念の境界線を引くということは「完璧に相手のことを理解をする」ということそのものでもあるのだから。
「理解した」というのは、分断の始まりとはつまりそういうこと。
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で、だとすると、全てを包摂できる境界線がどこかに存在している、という感覚が幻想であるということも、これでよくわかると思います。
たとえ、どんな完璧な境界線をそこに引いてみても、私は境界の外側の存在だ、と言い張る人間が、そのときには必ず現れるのだから。
ここでわざわざ性的マイノリティのアルファベットがドンドン増えていく例を出さずとも、境界線を引いて理解するということと同じかソレ以上に、境界線の外に出たいという趨向性みたいなものが人間には働くということがわかるはずです。
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だとしたら、言葉を獲得した人類が、その長い歴史の中で、どこかでこの流れというか動きを止めないと、としたのもよくわかると思います。
「宗教」がある程度の歯止めを準備したのもよく分かるなと。
もしくは、ハッキリとした境界線を引いた後に、その境界線からはみ出るものは、徹底的に排除しようとして、境界線の外側に徹底的追いやることで成立させようとしたこともよく分かる。
まさに、西洋の一神教が「バイブル」と「その外」にしたように、です。共通の文化基盤を持っているというのは、つまりはその境界線の位置を共有しているということでもあるわけだから。
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で、きっと、その追い出された人たちが流れ着いた極東の果て、それが日本だったのでしょうね。
そんな境界線の外の外である日本の中で生まれた概念が、縁側的な空間。つまり、境界線を極力曖昧にするという、究極のライフハックです。
内でもあり内でもない、外でもあり外でもない。
まさに、「と」の論理。そもそも「あなたはどちらに属するのか」とさえも、一切問われない文化。二項対立ではなく二項同体であり、神仏習合のようなシンクレティズム。
境界線を曖昧にして「曖昧ゾーン」をつくり出し、その曖昧ゾーンであれば、どんなひとたちがいても許される空間を創造した。
結果として、それ以上は境界線を巡り争うこともなくなるし、それ以上過度に境界線を広げる必要もなくなる。
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そのかわり、文化の障壁、そのコンテキストを深める方向性に日本は傾いた。
物理的な障壁は築かない京都の独特な文化だったり、江戸の町人文化としての「粋と野暮」だったり。
つまり、見える人には見える壁、通れる人には通り抜けられる壁をつくった。
西洋の「一神教」をはじめ、極東の曖昧さも含めて、このあたりは本当に先人たちの生きる知恵なのだろうなあと思います。
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ここで、話は少しそれますが、最近、小説『国宝』をオーディオブックで聴いています。
あの映画がこれだけ今ウケているのは、いろいろな理由付けができると思いつつ、冒頭の掴みが最高に素晴らしかったからだと僕は思いました。
その掴みとは何か。男が女役を演じている、その生まれ持った天賦の才が描かれていたこと。さらには、それがヤクザの世界、つまり一般社会の境界線の「外の世界」で演じられていたということ。
3時間という長い映画ですが、あの最初の10分ぐらいで勝負は決まっていたんだろうなと思います。
あの瞬間に、映画を観ている誰もが、現代という社会で生きている規範意識から逸脱させられて、クラっとさせられた。まさに耳がやられた。
タブーにタブーを重ねることで生まれてくる魅力、そこにクラっと来たわけです。それが現代社会で排除されているものへの憧憬を呼び起こすという構造になっている。
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じゃあ、この性別の曖昧さと、ヤクザへの憧れはどこからやってくるのか。
僕は、たぶん境界線を曖昧にすることへの憧憬みたいなものが、そこにはあるのだと思う。
自分たちが何かを排除しているとわかっているからこそ、余計にそこに共感の依代を感じてしまう。源義経に感じたような、判官贔屓のような感覚。
そして、小説を聴くと、それがより一層よく分かるんです。
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具体的には、映画に描かれることなく、完全に排除されたキャラクター「徳次」が小説の中には描かれている。
ヤクザの親分のせがれとして生まれてきた主人公の幼馴染として、生涯、幼馴染のためにヤクザ的な世界で”坊っちゃん”に支えるために、闇の世界で暗躍する徳次の存在が、映画の中では幼少期だけ描かれて、青年期ではゴッソリと削られてしまっている。完全にいなかったことになっている。
でも、小説を実際に聴いてみると、徳次の存在を描けなかった理由もよく分かるんです。
今のコンプライアンス的に、あまりにも許されない。あまりにも世間のタブーに触ってしまうことになる。
その代わり、用いられていたのが、映画の中で過度に背中の彫り物を強調するカメラワーク。執拗なまでの入れ墨の強調。
あの描写も、小説を読んだ今ならよく分かる。
あれは、徳次をないものにすることへの必死な叫び。それを受け取ること、内在させることへの共感。
死者への弔い、死者として生き続ける、そういう切なさが、あの過剰なまでの彫り物描写だったんだろうなと、ものすごく腑に落ちました。
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さて、だいぶ話はそれてしまったのでもとに戻すと、いま僕らに求められているのは、多様性や包摂性を大切にするという名目のもと、境界線を引く範囲、その点について争うことではないはず。
むしろ、それをすればするほど、お互いの不満は募り、対立は深まるばかり。
福田恆存が主張するように、「完璧に理解した」状態を目指すことは間違いないわけですよね。
そうではなく、極力、境界線を曖昧にしつつ、昔は許されていたマイノリティをしっかりと弔い、そして死者と共に生きる。彼らの存在を忘れない。
それが、この国が長きに渡って辿ってきた道だし、辿るべき道だし、そしてグローバルとインターネットによって縮減してしまった世界に対して提示できる唯一の道だと思う。
昨日のブログにも書いたように「触れるなかれ、なお近寄れ。境界線は曖昧に」この三拍子が、日本文化の核心のような気がしています。
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とはいえ、今日の話を読んで、そんなのは理想論だと思った人も多いと思います。
「『境界線が曖昧に』は美しいかもしれないけれど、そんな甘いことが本当に可能か」と思われるかもしれない。この記事を読んだAIにもそう批判されました。
でも、だからこそ敬意と配慮と親切心、そして礼儀なんだと思う。
境界線を曖昧にするときには、受け取る側の節度も必ず同時に求められる。
その両方からのアプローチが存在することで、真の意味での共存共栄が可能となるのだと僕は思っています。
今はその受け取る側の節度は完全に蔑ろにされて、なおかつ境界線をハッキリと明確に引くことに躍起になっている。それが世界が平和になる道だと思っている。
そんなわけがないんです。
それが一番世界を混乱させる原因。本当に、押してダメなら引いてみろ、なんですよね。
こんなことを主張するひとなんて、現代の世の中には本当に少ないとは思いますが、世界で政治の議論が加熱し、選挙が佳境を迎えるなかで、本当に強くそう思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考になっていたら幸いです。

2025/07/11 15:26