昨夜、Wasei Salonの中で、雑誌『生活圏-函館旧市街編-』のが開催されました。

https://wasei.salon/events/f7d68cc16e78

この雑誌『生活圏』とは、2021年に函館へUターン移住されたライターの阿部光平さんが作られた、自費出版の函館の暮らしにまつわる雑誌です。

昨夜のイベントでは、実際にこの雑誌を手掛けられた阿部さんと、その雑誌の全ての写真を担当したフォトグラファーの土田凌さんをゲストに招いて、トーク形式のイベントが開催されました。

イベントにはサロンメンバーだけでなく、このイベントに興味がある外部の方々にも集まってもらって、おふたりに90分間、ゆっくりと丁寧にお話を聞かせてもらったのですが、これが本当におもしろかったです。

今日は、昨夜のこのイベントの内容を少し振り返りつつ、ものづくりの「哲学」はいつ宿るのか、ということを考えてみたいと思います。

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さて、僕自身も北海道の函館市出身ということで、この雑誌をつくるにあたって、本当に少しだけお手伝いさせていただいて、取材にも同行させてもらいました。

おふたりが函館で取材している最中、ずっと横でその様子を眺めていたわけですが、にも関わらず、昨夜のイベントの最中におふたりが自らの創作活動の中で心がけていたこと、そのプロフェッショナルな部分について、まったく理解していなかったんだなあと驚かされました。

まさか、取材時にそんなことを意識していただなんて、素人の僕には思ってもみなかったという話です。

特に、おふたりが語っていた取材対象者の方や、お店との「距離感」の取り方についてのお話は、非常に印象的でした。

ちゃんとそこには、ライターやカメラマンとしてのマニュアルやテクニックだけではなく(もちろんその基本があるのは大前提のうえで)、しっかりとおふたりの「哲学」が存在していたように思います。

おふたりとは、過去にも何度か共にお仕事をしてきて、「あー、僕はこの哲学に惚れ込んでいたんだなあ」と、なんだかとっても強く納得してしまいました。

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で、そんな昨夜のイベントを終えてみて、いま改めて思うのは、まず確固たる哲学があって、それが作品にも昇華される、そんな風に僕らは思っているけれど、でも実際にはその逆なのではないか、ということです。

ここが今日、本当に強く強調してみたいポイントです。

つまり、実はまず無意識的につくられる作品があって、そこで意識したことを遡行的に振り返りながら、丁寧に言語化しているうちに、そこに万人が理解できる確固たる哲学が立ちあらわれてくるということなんだろうなあと。

もちろんそれは、作品をつくっているときには、その哲学が存在しなかったというわけではなく、確固たるものは存在していても、その段階では僕らにはまだそれが見えない。それは制作者本人にも、です。

しかし、そこに作品がちゃんと完成すると、人の目にも見えるものになる。

ちゃんと目の前にそれがあらわれてきて、ハッキリと伝わるものになるということです。

そして、昨夜のイベントのように、対話空間を作り出すことで、その言語化や本質看取ができるようになると言い換えても良いのかもしれません。

逆に言えば、そのような抽象的で言葉にならない言葉のようなものを、お互いに見えるものにするために、僕らは「作品」をつくるのだとも言えそうです。

そうすると、つくっている本人たちも含めて、読者や観客などすべてのひとたちが「なるほど、そういうことだったのか!」という発見が、ハッキリとした体験として訪れるということなんだろうなあと。

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これは、まさに「贈与の発見」の話にも、似ている話だなあと思います。

まずは先に、作品づくりがある。そして、その作品を受取ることによって、送られた作品の贈与≒哲学がそこに立ち表れてくる。

言い換えると、自分たちが「未来の自分たち」に対して贈り物をおくるような感覚なのかもしれませんね。その未来の自分たちが受け取って初めて、つくっていたときの贈り物がハッキリとしてくる。

だとすれば、まずはつくってみることって、本当に大事なことだなあと改めて強く感じます。

それは、いわゆる「リーン・スタートアップ」とか、そういう打算的・合理的な話ではなくて、そうしなければ「自分たちが本当に表現したいと思うものは、本質的にはわからないんだ」っていうことです。

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そして、大変ありがたいことに、現代はそうやってまずつくるためのハードルは、本当にドンドン下がってきています。

実際、自分たちだけで手掛けた自費出版だとしても、本物の雑誌を超えるような、これだけの作品がつくり出せてしまう。誰もがメーカーズになれる世の中なんです。

この点、阿部さんはイベントの最後に「伝えたいことは、この雑誌の中にすべて詰め込んだから、あとは読んでみてくださいとしか言えない」と語っておられましたが、きっと本当にそうで。

これこそが職人であり、プロフェッショナルなひとたちの想いの込め方なんだなあと、改めて実感しました。

読み手としても、作品を通して先に感動しているからこそ、その言語化を通して、さらに感動することができる。

「なるほど、だからか!」と、まさに訂正するように感動することができるわけです。そのときに、自らの身体の中にも深く染み込み、刻まれていくのだろうなあと。

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僕らはどうしても、確固たるスキルと哲学が自分の中で用意できたら、その時に初めて実際に作品をつくってみようと思いがち。

でもそのような消極的なスタンスでは、いつまで経ってもスタートラインには立つことはできないんだと思います。

そのうち、いつかハッキリとしたものづくりの哲学が定まったらと言っているうちに、年齢を重ねてしまい、自分にはもう遅すぎると勝手に判断してしまい、今回の人生では諦めようと決断し、二度とない人生の中で、いとも簡単に「作品づくり」を諦めてしまう。

だったら、ちゃんと腹の底から共鳴し合っている人間同士で集ってみて、なんとかひとつの作品をつくりだしてみる。

そうして、「なるほど、自分たちが大事にしたいことはこういうことだったのか!」ということを共に未来から発見し合って、そしてまた、それを次の作品へとしっかりとつなげていくほうがきっといい。

その繰り返し、この循環をつくりだすことに、僕自身もこれから尽力していきたいなあと本当に強く思いました。

それが本当に今大切なことで、現代においては、これが誰にでも平等に開かれている道でもあるわけですから。

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そして、そのための共同体と「経済圏」が整っていることが何よりも大事だなあと思わされました。

今後も、このような哲学や世界観を大切にしていきたいと考えているひとたちが、ちゃんと集うことができる、そんなコミュニティを淡々と耕していきたい。

小さくとも、そこで経済圏がちゃんと存在していること。そのうえで、みんなが大事にしている(大事にしたいと思っている)「生活圏」をしっかりと守っていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。