生成AI時代、これからの時代に希少になるのは、発信者、つまり書き手よりも、圧倒的に受信者、つまり読み手のほうであることは間違いありません。

整った文章やコンテンツの発信のハードルが限りなく低くなり、誰もが情報をカンタンに生み出せる時代においては良質なコンテンツの数は無限に増え続けてしまう。

でも、それを「受け取る人」のほうは、圧倒的に不足していくわけですよね。

この問題は、すでに多くの有識者が指摘していることでもあると思います。

ーーー

とはいえ、TwitterやYouTube、TikTokのようなプラットフォームには確かに多くの受け手が集まっていますが、それらは玉石混交であり、有象無象で、発信側のストレスも多い。

誤った形で受け取られて炎上してしまったり、言い争いのトラブルが起きるのも日常茶飯事です。

そう考えると、敬意を持って相手の発信を受け取ってくれる、そんな上質な読み手が集まっている空間や、センスのいい読み手が集まっている空間が何よりも求められている。

そのような空間が、結果的にこれからの生成AI時代においては一番希少価値が高まっていくんだと思います。

じゃあどすれば、そんな読み手が集まってくれる場所をつくることができるのか。

今日はそんなことを考えてみたいです。

ーーー

で、最初に結論を述べると、結局のところ、そのような上質な受け手に集まってもらうためには、「私が真剣に受け取るに値する」と思えるコンテンツを作り出してくれる「作り手」が重要なのではないでしょうか。

なぜなら、価値あるものが受け取れると思えれば、それを受け取りたいと願う人も増えるわけですから。

「なんだ、結局またグルっと回って優秀な作り手かよ!」と思うはずなんだけれど、でも、それはこれまでとは完全に似て非なる作り手だと思うんですよね。

ここがめちゃくちゃ重要なポイントだと思っていますし、現代の特殊性だなと思っています。

ーーー

じゃあ、具体的にはどういうことか。

それは、自らの魂を込めた文章やコンテンツをつくれる人であるということです。

本音で語り、本人が自分自身の力で考え抜いて、そこに自らの体験や感情、情緒的価値もしっかりとのせて、その人にしか出せないような味を出していることが、とても重要になってくる。

逆に、コンサルのような綺麗に整った文章や、AIによって最適化された理路整然とした表現はもう求められていないわけですよね。

それよりも、「その人自身が書かなければ、決して生まれてこなかったであろう」と思える体温のある言葉のほうが、受け取るに値するものだとお互いに感じ取るんだと思います。

ーーー

で、だとすれば、まず作り手側が安易にAIを使わないことはめちゃくちゃ重要だなと思います。

一方で、たとえばnoteのようなプラットフォームは、どれだけ生成AIが使われているかわからない。だから、オシロさんのようなプラットフォームの価値が余計に増していくと思うのです。

オシロ代表の杉山さんが「オシロの中では生成AIに頼らない形で、コンテンツ制作ができるようにしたい」と語られていましたが、その方向性はきっと正しい。

これから僕らは、オープンの世界では生成AIのコンテンツを当たり前のように日々読み続けるように強いられる生活に変わるわけだから、人間の手づくりやクラフト文化が、逆にクローズドの空間では求められるはずです。

ーーー

あと、たとえAIを使っていたとしても、決してコスパ・タイパのためにはAIを使わないことだと思います。

それよりも自分の魂の表現、嘘のない熱量を再現するために、AIを使ってくれているかどうかがカギとなる。

ここも重要なポイントだと思います。

言い換えると「そんな使い方だったら、AIを使わないほうが圧倒的にコスパタイパよく、簡単に書けたじゃん!」という使い方を、あえてしてくれていること。

実際、僕自身も生成AIを使うようになってから、圧倒的にブログにかける時間が長くなりました。

でも、そのおかげで、自分の熱量を以前よりも微細に込められるようになった。

なぜなら、AIと対話を何度も繰り返すなかで、よりよい表現だったり比喩だったり、伝えたいことの輪郭を鮮明にすることができるようになったから。

このような形でコンテンツをつくってくれるひとが、これからは求められるんだろうなあと。少なくとも僕は、そんな人たちの文章を読みたいと思う。

ーーー

この点、最近連日ご紹介している養老孟司さんと久石譲さんの対談本『脳は耳で感動する』の中で、「どこにも”顔”がない音楽」という話が語られてありました。

このお話が、今日の内容にも深く関連するなあと感じているので、合わせてご紹介してみたいと思います。

久石さんは、今流れているポップス音楽は、ほとんど修正されてつくられているので、「へたくそだな」という音楽はまずないと語ります。

「みんなうまいし、みんな、きちんとしている。けれどどれも似通ってしまっていて〝顔〟がないんですよ」と。

で、だからこそ歌に何が必要なのかを考えることが大事だと言います。

「音程もリズムも修正されて人工的なデジタルデータとして加工されたものが、はたして音楽としていいものなのか。それは違うでしょうと僕は言いたいんですよ」 と語られていて、この話にはとても共感しました。

ーー

で、さらにこの話を聞きながら、養老さんがふと思い出したお話も、ものすごく良かった。

こちらも養老さんの言葉として、そのまま少し引用しておきます。

養老    あれはなんという店だったかなあ。木島さんという人がいて、よく『ヨイトマケの唄』をうたっていた。友だち連れていったら、それを聴いて泣いてるんです。それこそ音程外れていたりしてうまいわけではないんだけど、それでもいいんだよ。     そういえば人を泣かせる歌手が、最近は少ないなあと思う。


ーーーー

「ヨイトマケの唄」というのが、とてもわかりやすいですよね。

いま僕らが生きる世界は、またこちら側に揺り戻しのようなものが来ていると思うんですよね。

言い換えると、拍手喝采がおくられるものにも変化が起きている。

実際に、Wasei Salonのみなさんがつくり出すコンテンツなんかもそう。

従来的なうまさとは明らかに異なるけれど、なぜか最後まで読んでしまう。

それは魂が込められていると思えるからであり、これが本当に素晴らしいなと僕は思っていて、そんな方々がこの場に集まってくださっていること自体も非常に誇らしいことだなとも感じています。

ーーー

ここにおいて、さらに大事な点は、この歌の上手い・下手みたいなものは「客観性が欠けている」という点なんです。

その場に直接聴きに行くから良いのであって、客観的にいつ・いかなる時も「いい音楽」なんてものがこの世に存在するわけではない。

養老さんは、やっぱりそこに聴きに行くからいいのであって、レコードで聴いたら面白くない。それは「食べ物」と同じですよ、と語っていました。

「名物に旨いものなしというけれど、その土地で飲む地酒が一番美味しいのだ」と。

土地の雰囲気自体がこちらの感性を変えてしまうわけであって、個人の感性や感覚というのは、場所を変えるとズレるものなんだと語られていました。

だから、音楽も聞く場所やタイミングが非常に重要だという結論になるのですが、これは文章やコンテンツにおいても全く一緒だなと思います。

ーーー

だとすれば、生成AI時代においても、「優秀なつくり手」と「優秀な受け手」その両者が出会える「舞台」をつくることが大事なんですよね。

「ヨイトマケの唄」のような魂こもっている歌のほうが、素晴らしいと感じられるような、そんな場をつくること。

養老さんの例にあった地酒というのは、本当に不思議なもので、東京の小洒落た飲食店で同じ酒を飲んでみても辛すぎたり、甘すぎたりして、あまり美味しいと思えない。地酒には、地酒の舞台がある。

具体的には、その土地の郷土料理と、その土地の匂いと風、そして生みや山の音と、色んな要素が絡んで初めて「あー、だからか!」という味になっている。

それを理解できることが真の意味での味うことだと僕は思っていて、コミュニティにおけるお互いのコンテンツも、そういうことだよなと思っています。

ーーー

だからこそ、僕は、そのための舞台としてのクローズドのコミュニティを作り出し、そこに魂がこもった音楽を聞くのが好きな人が自然と集まり、そして歌う側も恥ずかしがらずに真剣に歌える、そのような行動が一番称賛されるような空間を淡々とつくっていきたいなと思います。

本書の最後で、養老さんは以下のような発言をしていました。

地球上には八十億人もの人が生きているわけでしょ。その天然の知能をどうしてもっと大切にしないんだと言いたいですよ。AIが作る世界というのは、詰まるところ人間を大切にしない社会だと思います。学校に人文科学は要らないというふうに言い始めたあたりから、日本人に蔓延する〝病〟がかなり進行していると思いましたね。それは人間を大事にしなくなったことの一つの現れで、人に対する信頼感がないんですよ。


生成AI時代だからこそ、その変化によって人間を排除していく方向ではなく、いま一番ひとを大事にすること。そして、改めていま、人への信頼感をしっかりと取り戻していくこと。

AIが全世界に普及することが確定した今、そんな古くて新しい価値みたいなものを、みなさんと一緒に作り出して新たに発見し合っていきたいなと思います。

そして、素晴らしい受け手や、読み手が集まっている場を、淡々とつくっていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。