何があっても裏切らない、目先の損得で動かない。お互いに、相手のことを最後までしっかりと信頼できる。

そんな人間関係が、人生のなかで増えていけば、何でもできるよなと思います。

逆に言えば、ここだけを大事にすることができれば人間の幸福にはかなり高い確率で近づける。

当然、僕自身も一番増やしたいと考えている資産も、このあたりにあるなあと感じています。

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このようなプライスレスな資産、人とのつながりを人生の中で少しでも増やしていくためには一体どうすればいいのか、それを日々プライベートでも仕事の中でも、ずっと考えていると言っても過言ではありません。

で、いま騒がれているような学校や教育問題なんかもここに帰結すると思います。

確かにネットやAIの進化によって、これからはN高やZEN大学のような通信系の学校でももう全く問題ないはずですし、学校教育は前時代過ぎて、時代に全く追いついていない。

でも、幼馴染の仲間との間に育まれがちなこのような信頼関係をつくり出すような環境は、やっぱり学校という場がまだまだ一番だなと思うのです。

これは逆に言えば、そのつながりを構築できる別のコミュニティが存在すれば、それでこの教育問題も解決するように思います。

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今の資本主義一辺倒の世界においては、お金に換金できる資産とそれに類似するキャッシュフローさえあれば社会的信用、つまりクレジットが得られていくらでも何でも手に入れることができる。

でもそれは、金の切れ目が縁の切れ目でもあるわけですよね。

そうじゃなくて、お金によっては手にすることができないこのような「信頼」をどうやって耕していくのか、それが一番重要な点だと思うんですよね。

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で、このような話を考えるたびに、僕がいつも思い出してしまうのは美学者・伊藤亜紗さんの『手の倫理』という本に書かれてあった、「安心」と「信頼」のお話です。

伊藤亜紗さんいわく、安心とは、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を意識しないこと。信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということです。

このときのポイントは、信頼に含まれる「にもかかわらず」という逆説でしょうと、伊藤さんは『手の倫理』の中で語られていました。

社会的不確実性がある「にもかかわらず」信じる。この逆説を埋めるのが信頼なのです、と。

その時に出されていた親子の関係も、素晴らしくわかりやすいので合わせてご紹介しておくと、

もしかしたら、一人で出かけた子供が行き先を間違えて迷子になるかもしれない。途中で気が変わって、渡した電車賃でジュースを買ってしまうかもしれない。そう分かっていてもなお、行っておいでと背中を押すことです、と書かれていました。

この、何の担保を求めずに子どもや他人を信じること。ここに信頼と社会的信用(安心)の違いがあると僕も思っています。

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で、これというのは、そのまま自己信頼にもつながる話だったりもするはずなんですよね。

なぜなら、自分が選び取った、そのような何の担保も持たない信頼するという決断は、自分自身を信じないと実行することはむずかしいことだから。

つまり「相手を信じる自分」を信じるということです。

で、僕が思うのは、このような直接的ではなく、他者を経由することで芽生えてくる、間接的な自己信頼が、一番自己信頼の形として健やかで理想的だなとも思います。

「自分で、自分を直接信じる」というのは、どこまでいっても欺瞞的な感じが拭えないですが、そうやって、何があってもこのひとは裏切らないと思える関係性の中に、自己が位置づけられていれば、欺瞞的な感覚は徐々に薄れていく。

その網の目状に広がる反射としての自己信頼だったら、素直に信じても良いんじゃないかと思えるようになるのかなと。

コスパやタイパも度外視しても「このひとには生涯かけて私から全力で協力をしたい、自分が相手に対して尽くしたい」そう思える相手と本気で出会えていくことが、最大の幸福だと僕は思っています。

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じゃあ、このような場面において、歴史的に人々は一体何を依代にしてきたのか。

言い換えると、その判断基準とは具体的には何だったのか。

ひとつはわかりやすく血縁ですよね。切っても切れない縁のひとつ。

もうひとつが「家」だと思います。こちらは想像の共同体にも近い。一族郎党まで含む「イエ」の概念ですよね。

じゃあ、幼馴染の友人や仕事仲間とは、どうやってそんな信頼関係を築いていたのか。

ここが一番大事な問いになってくる。

それはきっと、アドホックな連帯ではなく、もっと継続的な連帯という時間の根拠が大事だったんだろうなあと。

ただの「共感」や一時的に「行動」を共にしたというような、上っ面の関係ではなくて、長く時間をかけて育まれた「共鳴」や「共振」のようなもの。

若い人ほど、終身雇用ではなく、ギルド的な働き方、みたいなものを理想とするけれども、それはやっぱりどこかでお互いにつながっていると思えるから継続できているはずなんですよね。

ルパン三世的な働き方だって、アドホックに見えて、実はゆるやかな継続的なつながりが為せる技なんですよね、本当は。

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でも現代社会は、そうやって長く共にいるということを否定してきた。

スキマバイトアプリ・タイミーみたいなものも出てきて、タイパ・コスパのためにドンドンと人間関係がぶつ切りにされていく。

「こっちのほうがタイパ・コスパも良いでしょ、より自由でしょ!」と思わせておいて、いつまでも連帯できないように仕向けられている。

人々を孤立に追い込んで、深く長いつながりを持たせない。それが資本主義に資することでもあるからです。

別にこれは、タイミーなどの企業が何か陰謀論的に「悪の組織」として仕掛けているわけではなく、ユーザーの反応に最適化していくと、そうなるというだけ。

もし仮に何かの意志が働いているとすれば、それは「資本の他者性」から生まれてくる、「資本の意志」でしかない。

現場で働く人々は、株式会社という仕組みの中で評価されることに向けて最大限に努力し、最適化しているにすぎない。そのような労働者は、ものすごく優秀な善意の第三者です。

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じゃあ、こんな世の中において、一体何から復興していけば良いのか。

それは「長い間共にいたよね、それでもこれまで一度もお互いに裏切らないよね」ということだと僕は思います。

だからこそ、共鳴や共振するための「時間」や「空間」が必要なんだろうなと思うのです。

冒頭で述べた、学校の問題や幼馴染の存在なんかもそうでした。

お互い何もわからない中で、この世界に勝手に放り込まれて、その中で共に助け合って、若かりし頃の悪事なんかも一緒にはたらいて、教師や親に叱られて、そういう体験の中で自然と育まれてきたお互いの信頼感。

別にお互いのスペックとか、何かそういうものを信頼しているわけではないし、それでいったらもっともっと客観的に社会的信用が高い人がいるのに「この相手だけは自分を裏切らないだろうとお互いに思い合えているかどうか」が大事。

で、それは何に裏付けされているかと言えば、「ここまで何十年とお互いに裏切ってこなかったんだから、これからも裏切らないでいられるよな」というなんとも根拠のない信頼なんだけれども、人間の信頼なんてものは案外そんなもののような気もしています。

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最近、連日ご紹介している『脳は耳で感動する』という本の中で、養老さんが物理的な共鳴現象として有名な「ホイヘンスの振り子時計」というお話をしていました。

これはどんな現象かと言えば、石の家の壁に向かい合わせて同じ種類の振り子時計を吊るしておくと、初めは振り子が別々に動いているんですが、やがて同期するらしいのです。

それは、さまざまなノイズは互いに干渉し合ってゼロになるんだけど、規則的に動いている振り子の振動だけが伝わって、長い時間をかけて二つの振り子時計はまったく周期を同じくするのだ、と。

養老さんはこの話を、長年連れ添った夫婦にも適用できて「別に同期しようとして生きているわけではなくとも、一緒に暮らしていることで同期せざるを得ない(笑)」と笑い話のように語られていました。

でも本当に、このように長年かけて周期を同じくしていたリズムさえ揃えば、信頼に値するもんなんでしょうね、何事も。物理的な宇宙の真理だと思います。

逆に言うと、このリズムこそがいちばんの信頼の基盤にもなっている。不思議なことだけれども、本当にそう思います。

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だからこそ、そのために最適な「時間」と「空間」をつくりだす。

これからは、家族もバラバラになり、学校もバラバラになり、会社もバラバラになるのだから。

だとすれば、Wasei Salonのような場も、末永く続けていくことに価値が生まれてくるのだろうなあと。

この場に参加してくださっているメンバーひとりひとりにとっても、信頼を生み出すための「共鳴」や「共振」のための装置となってくれていたらこれ以上ない喜びです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。