今日も、昨日に引き続き、久石譲さんと養老孟司さんの対談本『脳は耳で感動する』をご紹介してみたい。
何かしら創作活動をするひとは、この本は一読の価値がある本だなあと思います。それぐらい「ものづくり」のヒントに溢れている本です。
もちろん、対談本なので、小難しい理論が語られていて読みにくいわけでもないですし、しゃべり言葉だから、誰もが気軽にサクサクと読める内容だと思います。
それでも、本質をバシッとついてくるお二人の洞察力が大変素晴らしい。
今回は「真っ赤な嘘に、ひとは夢中になる」というお話をご紹介しながら、そのお話を受けて僕が考えたこと、コミュニティ運営にもひもづけながら書いてみたいなと思います。
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この点、養老さんは「あらかじめ真っ赤なウソであることが保証されたものは、人の心をつかむ」という話を本書の中でされています。
そして、そんな真っ赤なウソの元が、西洋には二つあるんですよ、と語ります。
町の中にある立派な建物がそうだと。ひとつは、教会、そしてもうひとつは劇場。
両方とも、人間はその中に引き込まれて夢中になる。
「この中で起こることは、全部真っ赤なウソですよ」ということを最初に言明しておくと、人間は安心してだまされに入る。だからあれだけ立派で、外界とは隔たりのある空間なのだと。
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で、話がおもしろいのはここからで、じゃあ、日本においてこれは一体何か?
話の流れ的に「神社仏閣」のようなものかと誰もが想像すると思うのですが、ここがやっぱり養老さんで、少し変化球を投げてきて、意外にもそれは「マンガ」だと書かれていした。
少し本書から引用してみたいと思います。
教会と劇場は、その中でのことは真っ赤なウソだというのをもり立てるための装置。外に対して頑強な殻をつくる必要もあるので、ことさら立派なものを建てるんです。
では、日本でそれに似たものは何か。演劇的空間以外に、いかにも日本ならではのものがある。それが漫画ですよ。「これは漫画ですから」といわれると、この中に書いてあることはウソだという大前提が保証されているので安心できる。だから夢中になるんですよ。
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これは、実際に言われてみると本当にそうだなあと思いますよね。
言い換えると、日本人にとってはマンガは、劇場や宗教施設のようになっている。
「バーチャル宗教施設」と言えるような仮想空間だと思います。
つまり、日本ではマンガやアニメがある種の「演じられる神話」や「信仰の場」として機能していて、そこで語られる「物語」に共鳴することで、人々が何かしらの「救い」や「理解」を獲得している。
その構造が、西洋の教会や劇場の役割に似ているというのは、なんだかとても納得できるお話です。
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そして、だからこそ現代において、マンガやアニメがこれだけグローバルコンテンツとなって、世界各地で、共鳴もしている
先日もご紹介したNHKスペシャルのように『進撃の巨人』や『ワンピース』など日本の漫画がウクライナやジンバブエなど、厳しい社会情勢の国々のひとたちに刺さっている。
番組内で「厳しい社会だから、(漫画という)別世をつくった。」と本編で語られてあったけれど、本当にそういうことなんだろうなと思います。
良くも悪くも、置かれている気持ちは共通する部分が多いからこそ共感できるということでもあるわけだから。
そして、古くは、蔦屋重三郎の「狂歌」を含んだ「黄表紙」なんかもそうだったのだと思います。
というか、そもそも江戸における「吉原」という空間自体がそうだったとも言えるのかもしれない。
そこは、明確に「こちら側」ではなく「あちら側」というようなイメージです。現実とあの世のあわい的空間。
僕らいつだってそうやって、異世界を作り出して、そこで自分たちだけのフィクションの世界をつくりだして、嘘だという大前提を共有して安心し、夢中になる生き物なんでしょうね。
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で、小説なんかもそうだなと思うんです。
物語という形でふわっと空中庭園を立ち上げる、ことによって伝わる何かがある。
村上春樹のエッセイの中に、とても印象的な描写があり、あまりにもこの話が衝撃的すぎて、これが僕はいつまでも忘れられない。
現実の自分に起きたことをそのまま描いてみても、リアリティの欠いた薄っぺらなものになってしまう。その時に小説家はどうしているのか、というお話の中で、以下のように語られてありました。
村上春樹さんの『若い読者のための短編小説案内』という本から少しだけ、引用しておきたいと思います。
じゃあ、僕らはそこで何をするかというと、そのかわりにひとつのファンタジーをでっちあげるわけです。つまりいくつかの重い事実の集積を、ひとつの「夢みたいな作り話」にとりかえてしまうのです。空中庭園みたいにふっと地上から浮き上がらせてしまうわけです。そうすることによって、ようやくその物語は、僕らの手に負えるものになる。そのリアリティーは僕らの手の届くものになる。
僕らはその小説を書き上げ、「これは現実じゃありません。でも現実じゃないという事実によって、それはより現実的であり、より切実なのです」と言うことができます。そしてそのような工程を通して初めて、それを受け取る側も(つまり読者も)、自分の抱えている現実の証言をそのファンタジーに付託することができるわけです。言い換えれば幻想を共有することができるのです。それが要するに物語の力だと僕は思っています。
現代は、それが小説ではなく、マンガで行われているということなんでしょうね。
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また、現在のフジテレビ問題なんかの見落とされがちな問題もこのあたりにひとつあるのだと思うんですよね。
こういう適当なことを表で言うと怒り出すひとがいるから、あまり表では書けない話なんだけれど、フジテレビはやっぱり「お台場」にあったことは、かなり大きかったんだろうなあと思います。
そこは埋立地であり、レイボーブリッジ(橋)を渡っていく先にあったことによって、あちら側とこちら側という無意識が働いている。あちら側とこちら側で、ルールや倫理が違っていても問題ないという無意識は、間違いなく働いていたように思う。
橋の先はフィクションであるという無意識です。でも本来そういった橋の先というのは「行って、帰って来る場所」であって。
言い換えると「橋を渡った先にある埋立地を仕事場や住まいにするなら、相当な強い意志を持たねばならない、さもないとあちら側に飲み込まれる」という教訓でもあったような気がするんです。
新海誠監督の『君の名は。』は、行ったあとに、そのまま帰ってこなかった作品だと、スタジオジブリの鈴木敏夫さんが以前、強烈に批判していたのは、今になれば本当によくわかるお話。
物語は「あちら側」に行くだけのものではなく、「行って、戻ってくる」ものだからこそ、現実と接続し、意味を持つということなんでしょうね。
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もちろん、この話というのは、決して橋の先にある埋立地自体を否定しているわけではなく、80年代以降のフジテレビ特有の一人勝ち状態、そんな「浮世の世界」をつくれたのもまた、そこが橋の先にある埋立地だったからなんだろうなと思います。
それぐらい、橋が隔てる「あちら」と「こちら」が日本人に与えている影響って、実はきっとかなり大きいのだろうなあと。古事記みたいな神話の話に限らず、ローカルを旅しながら移動していても、本当によく思います。
「東京の、しかもお台場において、そんな古臭い民俗学的な視点なんて、まったく関係ねえだろう」が一般的な解釈だとは思うんですが、実はめちゃくちゃ影響を与えていたんじゃないかというのが僕の勝手な解釈です。
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で、翻って自らの行動に落とし込むと、オンラインコミュニティというクローズドの空間内においても、やろうとしていることも原理的には一緒だなと思っています。
個人的には、この自覚はめちゃくちゃ大事だなと感じている。
クローズドな空間だからこそ、安心して共にフィクションを楽しめるし、その感想としての歯が浮くような理想も語れるわけです。
この中だからこそ許される雰囲気があって、かつ言葉を豊かに用いようという姿勢も一緒に生まれてくるんだと思うんですよね。
だからこそ、普段は使えない言葉を使うから、それぞれの内側からの変化も生まれてきやすい。
つまり、そこで、空中庭園やファンタジーを共有しやすいわけです。そしてその場での体験を、ある種の疑似体験のように用いて、実社会においても、そこで得られた学びや経験を活かすことができるわけです。
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で、僕は最近ずっと同じようなことを語っていると思うけれど、そのような体験それ自体が、現実世界と完全に置き換えられなくても、リアルな日常生活の中での「土台」になるよなあと思うんですよね。
世界が完全に理想的な価値観に置き換わることなんてない。
だって、それはひとつのフィクションなんだから。
どれだけ理想的なことを語ってみたところで世界全体が、教会や劇場に変わることがないのと似たような話です。
でも、その非現実的な空間内において、言葉の豊かさを感じ取って、ガラッと変化してしまう自己に出会い、外の実世界においても、その立ち振舞いが少しずつ変化していくことはあるよなあと思います。
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ものすごく抽象的ですが、本当に大事なことは、今このあたりにあると思っています。
外の世界を完全に「理想」に塗り替えようとしてみても、なかなかにむずかしいことだけれど、真っ赤な嘘を立ち上げられる空間と、かつそこで扱う言葉の豊かさや豊穣さに自ずから出会うこと。
いつだってそのフィクションに対して自覚的になっておくこと。そして、ちゃんと行って、帰ってくること。
このあたりを忘れずに、これからもコミュニティ運営に取り組んでいきたいなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。