ビジネス文脈だと「リーダーシップ」は、発揮することに価値があると語られがちです。
でも、僕はそれは大きな誤りだと思っています。
ビジネスパーソンがリーダーシップを身につけることに異論はないけれど、いかにそのリーダーシップを直接的に発揮せずに、場の生態系を構築していくか。
その封印されたリーダーシップにより自然発生的に生み出されていく生態系(コミュニティ)にこそ価値がある。
一見するとわかりにくい話なのですが、今日はそんなお話をなるべくわかりやすく書いてみたいと思います。
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そもそも日本語って、その構造や語彙の傾向ゆえに、情報を相手に伝えるだけでも、どうしても先生的な表現になってしまう。
発信者と受信者の間に明確な上下関係が生まれやすい構造になっている。フラットな関係性が、驚くほど構築しづらいのです。
ただ何かの情報を伝達するだけでも、リーダーシップ(指導力や統率力)が発揮されやすい言語となっている。
さらに日本人は、無意識のうちに「生徒マインド」も発揮してしまいます。とりあえず、目の間の相手の言っていることを鵜呑みにして、言われるがままに従う癖が身に付いてしまっている。
そこに、擬似的な師弟関係を作ろうとしてしまうわけですよね。
つまり、日本語でやり取りしていると、お互いの自分の立場を固定化しやすく、相当意識しないとすぐに祀り上げられるし、相手を祀り上げてしまうジレンマが存在しているわけです。
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僕自身が、人前でプレゼンやスピーチをすることを極力避けていきたいと思う理由もここにある。
そのような場で話すと、どうしても啓蒙的になり、“壇上の上から感"が出てしまうのですよね。
そうすると、自分の中のリーダーシップ性や嗜虐性(サド性)、煽動心のようなものが無駄に刺激されてしまう。
でも本来「リーダーシップ」というのは「武力」と一緒で、封印するからこそ価値が生まれるものなのです。
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具体的にはどういう意味か。
この点、内田樹さんの「武力」についての解釈が非常にわかりやすいかと思うので、少し引用してみます。
自衛のためであれ、暴力はできるだけ発動したくない、発動した場合でもできるだけ限定的なものにとどめたい。
これを「矛盾している」とか「正統性が認められていない」と文句をいう人は刑法の本義だけでなく、おそらく「武」というものの本質を知らない人である。
「武は不祥の器也」。これは老子の言葉である。
武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存するのである。
「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせば「武力」ではない。ただの「暴力」である。
引用元:5月6日 - 内田樹の研究室
リーダーシップもこの「武力」と同様だと僕は思うのです。
それは、他者を屈服させる、服従させる可能性を秘めている類いの力だから。それを発動した瞬間に、その場に自然発生的に生まれてきていたはずの生態系の芽はすべて摘まれてしまう。
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とはいえ、リーダーシップをまったく身に付けなくてもいいわけではありません。「あるけれど、使わない」ことにこそ意味がある。
この封印するという過程において、初めて本当の効力を発揮する類いのものは、この世にいくつか存在し、決してその数は多くはないけれど、世の中にはそういった力(パワー)が間違いなく存在しているのは事実でしょう。
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このとき、コスパとか損得感情とか世間一般的な価値観で考えてしまうと、
「せっかくリーダーシップを身につけたのに、使わなきゃ損じゃん!」
「リーダーシップを使えば、より一層自分にとって有利に働くんだからお得じゃん!」
という発想になってしまうけれど、それがバカのはじまりだと僕は思う。
現在新しいムーブメントとして盛り上がっているweb3やDAOのような新しい分散型の組織文脈においても、まったく同様のことが言えるかと思います。
いかに直接的にリーダーシップを用いなくても、組織を自立分散的に自走させていくことができるのか、人々がそのような機運を求め始めているからこそ、今このような方向性に組織の形がシフトし始めているのだと思います。
でも逆説的ですが、そのためには必ずその組織の起案者がリーダーシップを備えていることも必要不可欠であると感じている。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。