先日、こんなツイートをしてみました。


ありがたいことに、このWasei Salonで開催されるオンラインイベントの満足度はとても高く、みなさん本当にこの空間で開催されるイベントを純粋に楽しんでくれているなあと感じます。

その理由のひとつは「対話」を通じて、「声」での交流を行うことができているからなのだろうなあと。

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この点、これまでのインターネットの世界の中では「文章での交流」がメインでした。

文章の中であれば、人はいくらでも取り繕うことができる。

本心とはまったく異なることを書くこともできてしまいますし、何度も何度も書き直して、相手に伝わることを大幅に改変していくこともできてしまいます。

それゆえに、伝えたいことの精度や純度が高まっていく効果はあるとは思いつつ、その完成度の高さゆえに、書き手の建前や嘘を見破ることはなかなかにむずかしいことです。

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でも「声」の場合は違います。そのような建前や嘘は、簡単に見抜かれてしまう。

また、You TubeやPodcastのような「声」が含まれているコンテンツは以前からインターネット上に存在してはいたけれど、聴いている私の声が相手に届くという「双方向性」はそこには存在していません。

声での交流というのは本来、最初から最後まで他者との「コミュニケーション」であり、必ず相手の「声」での応答を含んでいる。

「顔の見える関係性」とよく言われることがありますが、これは表情を通して相手の感情を読み取ることができると同時に、「声の聞こえる関係性」という意味も含まれているのだと思います。

この部分が、これまでのオンライン交流において圧倒的に欠けていた部分なのだと思います。

つまり、Wasei Salonで日々開催しているような対話型イベントというのは、友人や家族、仕事仲間以外と「声」で交流する楽しさが存在しているのだろうあなと。

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特に顕著にあらわれるのは「何を言い切ったか、声のどこに力が入ったのか」と同時に「何に躊躇い、どこで沈黙したのか」の部分です。

声にならない声も、とっても大事なメッセージ。

編集された動画では、それらがドンドン切り落とされてしまって、まったく異なる声に編集されてしまうことがある。

それは「声と文章」の間のようなものです。

1:nの情報伝達手段としては優れているかもしれないけれど、相互交流手段としては、やはり劣ってしまうことは間違いないでしょう。

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編集されていない、ひとりひとりの「生の声」でつながること。

何か大事なものが見落とされているような感覚は、現代に生きていれば、必ず誰もが一度は体感したことのある感覚だと思います。

その見落としてしまっている大事なものを、お互いの声を通して少しずつ紐解いていくようなイメージです。

そんなふうに、ある種の哲学的な問いを、声を経由して相互に交流する空間がこれまでのインターネットの世界、オンラインのコミュニティの中には存在しなかったのだと思います。

これからも、このWasei Salonはそんな一風変わった場所として運営していきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。