最近、伊集院光さんの『名著の話    芭蕉も僕も盛っている』という本を読んでいます。

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前作の『名著の話    僕とカフカのひきこもり』も非常におもしろく、続編をめちゃくちゃ楽しみにしていました。

ちなみに前作は、Audibleでオーディオブック化もされているので、気になる方はぜひ前作から聴いてみて欲しいです。

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今回の新作は、冒頭で取り上げられている名著が、松尾芭蕉の『奥の細道』の話からとなっています。

伊集院光さんと講師役の長谷川櫂さん(俳人)との対談形式で、「いかに松尾芭蕉の俳句が凄いのか」という話が繰り広げられていきます。

この中で、僕が強く膝を打った表現がありまして、それが今日のタイトルにもある通り「旅先で知識を持ちながら、ボーッとすること」の重要性。

具体的には「旅をした結果、ネタが生まれるのはいいけれど、ネタ欲しさやネタづくりのために、旅をするのはダメだよね」というようなお話です。

早速、以下で少し引用してみたいと思います。

僕はラジオで旅行の話をするから、旅をしている最中はネタをつくっているという意識がつきまとうんですよ。でもある日突然、そういう意識があってはいけないと思いました。ネタを意識する旅は本当につまらない。そうじゃなくて、自分が行きたいところに行って、結果的にネタができれば最高だと思うようになったんですね。     

 芭蕉はその境地のチャンピオンでしょう。曾良の調査やアシストはあるにせよ、芭蕉だって歌枕や古い和歌を知識としてたくさんもっている。     そういう人が、ボーッとする。これこそが大切な気がするんです。知識にとらわれても、知識がまったくなくても、見えてこないものがある。芭蕉のように、知識をもちながらボーッとできちゃうのはすごいことだし、その 術 が旅であることを芭蕉は知っていたんじゃないでしょうか。


このお話は、一言一句完全に同意です。

しかし、旅好きのひとは、概ねどちらかに偏りがち。

それは「知識重視か、体験重視か」と言い換えてもいいのかもしれません。

でも本当はきっと、そのどちらでもないはずなのです。

旅のような場合でも、対人相手の取材でも、徹底的に準備をし、それを完全に忘れてから現地に向かうという状態が、一番いい取材ができるような状態であることは間違いない。

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にもかかわらず、現代は、SNSやYou Tube上で、個人の情報発信を生業にしているひとが増えてしまったため、ネタづくりのために旅をしてしまっているひとは、本当に多いなあと感じます。

特にコロナ以降は「ワーケーション」というような言葉も広まったため、仕事と旅の境界線がかなり曖昧になってしまった。

もはや、SNSで発信するために、無理やりいろいろな土地を飛び回っているひとも、かなりの数存在しているのではないでしょうか。

もしかしたら、僕もそのひとりだと思われているかもしれません。

でも、僕はネタづくりの旅だけは絶対にしないようにと心がけています。ただ、旅をしている中でネタができるという体験は、本当に数しれず。

だから、発信するもしないも完全に自由にさせてもらっています。めちゃくちゃ調べて現地に行ったのに、一切発信していない旅の話もたくさんある。

逆に、何も準備していないのに、それまでずっと思考の棚においてあった「ずっとわからなかった問い」というものが、その場で一気につながって「あー、なるほど!そういうことだったのか!」と思って堰を切ったように発信することもある。

たぶん、ここがめちゃくちゃ重要なポイントだと思っています。

ネタづくりのために旅をしてしまうと、わからない問いをわからないままにしておけないんですよね、不思議なことに。

それよりも、目の前に広がる何かと無理やり紐付けて、それが「答え」だと思って発信してしまう。

つまり自分自身も、その先にいる読者や視聴者も騙すことにつながってしまうのでしょう。

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この点、最近、海外からのインバウンドの観光客のひとたちが一気に戻ってきて、旅先で彼らと出くわすことも多くなり、彼らの行動を客観的に眺めていると「あー、発信するために日本に来ているんだろうなあ」」と思わされることもしばしば。

そして他国の人だから、より一層客観的に彼らの行動を眺められる。

そんな彼らを見ていると、きっとこの人たちには、一ミリも日本の魅力は理解できていないんだろうなあと、素直に確信できてしまいます。

なぜなら、自国にいる自分も、日本に来ている自分も完全に「同じ」だと思っているだろうから。

この点、養老孟司さんが、『ものがわかるということ』という本の中で、非常にわかりやすい旅の話を語ってくれています。

以下で少し引用してみます。

時々、知らない世界を見ることが、未知との遭遇だと思っている人を見かけます。コロナ前には、外国に「自分探し」に行く人もいました。日本が既知で、外国が未知なのではありません。「自分は同じ」と思っているから、日本にいるとなんでも同じに見えてしまう。それで「退屈だ」とこぼすのです。     

 でも、自分は同じだと思っている人が外国に出かけても、大した未知との遭遇はできません。そのくらいなら、何も考えずに出かけていったほうがいい。知らない環境に入れば、自分が変わらざるを得ませんから。


僕も、ご多分にもれず若い頃は「自分探し」や「青い鳥探し」のようなバックパッカーをしていた時期があるので、このお話は本当に痛いほどよく分かります。

そして、SNS上への発信、そのネタ集めのために日本に来ている彼らは、目の前に広がっているもの理解する気がないんですよね。

それよりも、来る前から発信したいと思っていた「日本という国にいる、変わらない私」を発信しようとしてしまっている。

彼らの中にはすでに、台本が完全にできあがっているんです。

そして、どうしてそうなってしまうのかと言えば、インターネット上に存在する「変わらない私」が、確固たる存在としてリアルよりも優先して先に存在するから。

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でも繰り返しますが、旅っていうのは、本来そういうものではない。

「絶対に変わらない私」を旅に連れてきてしまってはいけないのです。

それはどこにいっても「絶対に変わることのない私」を硬直化させてしまうことにつながってしまうから。

養老さんは本書の中で以下のように続けます。

「変わった」自分はいままでとは「違った」世界を見ます。自分が変われば、世界全体が微妙にずれて見える。大げさに言うなら、世界全体が違ってきます。だから「面白い」のです。

つまり「未知との遭遇」とは、新しい自分との遭遇であって、未知の環境との遭遇ではありません。新しい自分との遭遇は、自分探しではありません。そこを誤解すると、見知らぬ場所で、確固とした自分を見つけようと無理をすることになります。


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「知識重視か、体験重視か」このどちらにも偏らず、両方を同時に存在させることはできるはず。

矛盾するように聞こえるかもしれないけれど、そのレイヤーが異なりさえすれば、決して不可能ではありません。

これは、頭と身体を切り離すことも言えそうです。それは「理性と身体性」と言い換えてもいいかもしれない。

これと似たような体感値として、外国語の勉強をしていて、居酒屋で現地の友人と何気なく話しているというような完全に座学と離れた瞬間に、一気に何かの回路がパッと開くようなあの感覚に近いと思います。

あのときの驚きというか、何かとつながった感覚は言葉では絶対に言い表すことができません。身体が硬直化していたら(目的をもっていたら)絶対に開かない扉だろうなあと。

そしてそれを1度でも体験すれば、その感覚が一番大切なんだと、腹の底から理解することもできるようになる。

旅もまったく一緒です。

今日のお話は、旅好きとしてはどうしても伝えたくなったし、きっと伝わる人にはしっかりとと伝わることだろうなあと思ったので、ここにも書き残しておきました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。