僕の勝手なイメージなんですが、音声配信でもコミュニティ運営型のサービスであっても、プラットフォーム系のサービスって往々にして、拡大フェーズに入ろうとした時に、社員を増やして、その新しい社員をプロデューサーやマネージャーにしたがる傾向にあるよなあと思います。

でも、個人の活動において成功体験もなく、純粋に会社員経験しか持たないごく一般的な社会人を、突如そんなポジションに仕立てようとしてもむずかしいわけで。

結果として、百戦錬磨の個人クリエイターに向けて的確なアドバイスをすることもできず、結局放置をするという構造になりがちだなあと。

放置しなくても「何かあれば、何でも言ってください!」という窓口的なポジションにとどまってしまう。

これが、いつもものすごくもったいない現象だなあと思ってしまいます。

本当はそうじゃなくて、クリエイターたちは、そのコミュニティの最前線で活動してくれる「コミュニティメンバーの鑑」みたいなひとのほうを、実際は欲している場合が多かったりするんだと思うんですよね。

誰よりも、真剣に話を聴いてくれて、誰よりも真剣に反応してくれる、そんなコミュニティメンバーの鑑のような存在。

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たとえばこれをトークイベントで喩えるとすれば、イベント中にしっかりとうなづいて誰よりも反応し、質疑応答で緊張感ある中一番最初に手を挙げてハードルを下げて、その後の質問がたくさん続くような“流れ”をつくってくれるひと。

あとは、編集者も書き手の立場を下手に慮ったり、書き手だったらどうするかではなくて「純粋な読者であって欲しい」と作家たちが願うというあの話にも非常によく似ている。

この話も結局は、過去に何度もご紹介してきた発酵デザイナー・小倉ヒラクさんの「文化の読モ」理論の話につながるわけで、だから「コミュニティメンバー」モデル、みたいな人間がいることが、本当に大事になってくるなと思います。

特にコミュニティの場合は、場を提供することがコミュニティオーナーの目的だとすれば、その場や舞台の上で踊ってくれるひと、後から実際のコミュニティメンバーたちが続きやすい状況をつくることをしてもらえると、非常に嬉しいわけですから。

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でもなぜか、プラットフォーム会社側は、そんなポジションにはまったく価値がないと思っているご様子。

それよりも何か有益なこと、運営している会社側が提案するべきなのは、裏側の数字を見ているからこそ特権的に分析できて、そこから専門的に提案できるものが仕事だと思い混んでいる。

つまり、データから抽象化して普遍的なノウハウに落とし込んで、コミュニティーオーナーが改善できる部分を提案したほうが、企業としての役目を果たしていると感じるんだろうなあと。

でも、そんなわけがないんですよね。

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実際、Wasei Salon内にも、コミュニティの中に1人でもオシロさんのひとがいると本当に助かるなあと常々思っていて、いまはrioさんがまさにそんなポジションを担ってくれて、本当に心の底から助かっています。感謝してもしきれない。

Voicyさんでも、もし仮に一人でも、定期的に自分の配信を聞き続けてくれている人がいて純粋なリスナーポジションからご意見いただければ大変嬉しいのだけれども、たぶんVoicyの社内でそんな方は誰もいないのが、少し残念に感じている部分でもあります。

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このように、実際にコミュニティ運営やメディア運営をしたことない社員さんから、手取り足取り指導されるよりも、誰よりも楽しそうに、たとえ不器用でもいいから一緒にその場で楽しく踊ってくれるひとのほうが嬉しいんですよね。

つまり、こちらのやりたいことを理解し、それに全力で乗っかってくれる人のほうがありがたいんだよなあというのが、プラットフォーム利用者全員が思うところ。

今後、プラットフォーム系のサービスを筆頭に、コミュニティ運営のようなサポートをする企業というのも間違いなく増えてきて、きっとそんなときにはプロ・コミュニティメンバーの派遣会社みたいになっていくんだと思います。

今、SNS運用代行のようなことをやっている会社も、基本的にはそんな形で、コミュニティメンバーの鑑みたいなひとを、社員として増やしていく方向に、舵を切っていくのはきっと時間の問題だと思います。

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で、たぶん、ここまで読んだ方の9割は、それってただの「サクラ」では…?と思うはずなんです。

そのご指摘はごもっともなんですが、ただそれがエロス、だったらね、とも思います。でも、コミュニティ形成はどちらかと言えば、アガペーなんだよ、と。

これは先日、東畑開人さんがTwitterに投稿していた内容が、本当に目からウロコが落ちるような内容だったので、そこからお借りしている話です。


これは、本当にとても腑に落ちる整理ですよね。僕も感動しました。

過去に何度もご紹介してきた「好きだから大切にするのではなく、大切にするから好きになる。」とまったく同じ理論です。もちろん、前者がエロスで、後者がアガペーです。

長らく続いてきたSNS文化というのは、既に価値あるものを発見することに最適化されていて、まさにエロス的な仕組み。

一方で、コミュニティ文化というのは、まだ価値がない中で、その場に集う者同士で一緒にそれ自体を育ていき、そこに価値を付与していこうとするわけで、アガペー的な仕組みと言えるはず。

だからこそ、現代においてSNSの反動から、コミュニティ文化が生まれている理由もとてもよく理解できるなあと思います。

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つまり、コミュニティやそれに類似するサービスにおいて必要なのは、それを共に大切にする態度や姿勢、その場に対しての敬意のほう。

何か多くの人が体験したことがある場面でたとえるなら、入学当初に無秩序な教室内において、担任の先生と同じ目的意識を共有したアシスタント・ティーチャーがいるみたいな感覚ですよね。

もっとわかりやすく言えば、新規オープンのお店を手伝いに来た、本店勤務のヘルプスタッフとかでもいい。

バイトだらけの現場において、本店の思想が叩き込まれている社員さんが何人かいるだけで、そこに秩序が生まれてくる、あの感じです。

そして、新規のバイトスタッフであっても、その場に形成される流れに乗っていけば、自然と習得できてしまうわけですから。あれの各コミュニティや、広義のメディアのトンマナを共に構築していくようなイメージです。

それは決してエロスにおける「サクラ」ではないと思います。より広く、行き渡らせる潤滑油のような役割として存在するひと。

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で、これって、どれだけ頑張ってもひとりだと不可能なんですよね。でも複数人いると、その流れやうねりは自然に作り出せる。

たとえば、何か災害時に優秀なお医者さんが一人で乗り込んでも、あまり役には立たないはずで。

でもそこに看護師さんなども含めた医療チームがあれば、自然と秩序が生まれて、周囲の人々もそのチームがつくりだすうねりのようなものに乗っかって、お手伝いできるようになっていくはずで。

あとこれは、きっと誰もが一度は目にしたことがある、あの有名な一人の男性の謎のダンスの動画にも似ている話だなと思います。

あれって、最終的にはその場にいるほぼ全員が踊りだすわけですが、ひとりで踊っている時間が実は結構長いんですよね。

二人になってもまだ長い。でも、5人ぐらい超えてくると一気にうねりのようなものに変わっていく。

無秩序なひとの集まり、コミュニティの中でうねりを作り出すっって、つまりはそういうことだと思うんです。

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で、アガペーと言えば、誰もが思い浮かべるのがイエス・キリストであって、キリストとその仲間たちも、そんなふうに各地の各コミュニティに赴いて、ひとつの方向性を与える集団だったんだろうなと思います。

東洋思想が好きな方は、ブッダとそのサンガでもいいです。

何か明確なイデオロギーを掲げて侵略するような軍隊とは違って、その土地のひとたちの潜在的な能力を引き出すバフの魔法集団だったんだと思うのです。

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最初はたったひとりの熱狂であることは間違いない。

でも、そこに一緒に踊ってくれるひとがいることで、アガペーはアガペーになり得る。

だからこそ、プラットフォーム側は、それを支援するのが本当の役割になっていくような気がします。

自己のプラットフォームを活用することを認めるのか否かにおいて、もし審査性を用いるのなら、この部分に共感できるひとを積極的に開設させるという方向性なのだと思う。

今のプラットフォームは、エロスを発揮できる人を集めているだけであって、数字ベースでしか判断していない場合のほうが多いなと感じてしまいます。

本当に大事なことは、価値をゼロから生み出して、そのプラットフォームに集うひとたちで、共にアガペーを発揮し合う環境をつくりだしてくれること。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。