最近、高齢者の身体的にひもづいた記憶って、一周まわってものすごく価値が出てきているよなあと思うことが増えました。
今はもう、AIに聞けばありとあらゆる歴史や出来事を丁寧に教えてくれて、その信憑性の確認自体もインターネット上でできてしまうから、誰がその歴史の話を語っていても内容に大差はなくなりつつあります。
極端な話、これからは小学生でも、歴史学者の解説と似たようなことを書けて(生成できて)しまうわけです。
だとすれば、あとは差別化できることは何かといえば、そのことを自らの身体的な記憶として宿している人間かどうか。
つまり、そんな身体的な記憶を宿していることの価値が、いま爆上がりしているように感じられます。
言い換えると、もうそこにしか「差異」のようなものが残っていないとも言えそうです。
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これは、AIの登場によって身体的な記憶を宿していない情報の無価値化、ということでもあるんでしょうね。
もちろん、まだ現段階においては、プロンプトやAIの癖、どのようにその情報を見せるのかによって価値ある情報の生成には差があります。
しかし、それだって時間が経過するごとに、どんぐりの背くらべになってきている。 実際この1年間でも、どんどんプロンプトの重要性は低下してきています。
このように、もしそれがどちらもAIによって生成されるのであれば、誰の「最終チェック」を通ったものを読みたいか、という話です。そんな風に、最終的に誰が編集の責任を負っているのか、その文責の問題。
身体的な記憶を宿しているかどうか、生き字引き的なものの新たな価値が、AIのおかげで逆説的に生まれてきている。
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これは、別の方向から眺めると、僕らは相手の話を聴くときに、一体何を「信頼」するのか、何を担保にして話を聞いているのか、ということでもあるかと思います。
そのうえで「相手が経験している身体に宿した一次情報としての記憶」は、とてつもなく大きな信頼や担保だった、ということですよね。
あとは、その人との個人的な関係性の問題です。「しらんがな」で終わらない関係性になっているかどうかは、非常に大きなファクターとなる。
つまりこれからは、「それをお前が生成してどうすんの?」ってことがどんどん問われる時代に入っていくということでもあるのだろうなあと思います。
カンタンに言えば「大義名分」のようなものが必要になってくる。
ここが今日一番つよく強調したいポイントです。
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これからの時代は、AIを使って自分が何を伝えたいのか、何をこの世界に提示したいのか、そこから逆算して考えないと、AIの機能やできることだけに溺れてしまうよなあと思います。
業務効率化は見事に改善できたけれども、結果として、すべてにおいて「別に自分がやらなくても良かったね」というホラーな物語にもなりかねない。
いうなれば、「自己の道具化」のような現象が、一気に進みやすい世の中になっていくということだと思います。
ちなみに、この「自己の道具化」の話は、最近連日ご紹介している飲茶さんのハイデガー哲学の話からお借りしています。
自己の道具化を率先して行ってしまうと、自分自身のことも次第に道具だと思いこむようになってしまう、と。
ハイデガーは、それが「非本来的な生き方」につながると批判をしています。
ものすごくカンタンに僕の解釈で言ってしまえば、社会や世間から期待されている「肩書」が自分だと思いこむようになるわけですよね。
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Wasei Salonの中でも、よく肩書への違和感の話になることは多いです。
その理由も、この本を読んでいて、ものすごく腑に落ちました。
それは、それはそこはかとなく漂う「非本来的な生き方」を感じ取っているからだったんだろうなあと思うのです。
そして、そうではなくて、もっと「本来的な生き方」をしたいと無意識に思っているから、肩書で名乗り合う空間に対して違和感があるということなんだろうなと。
このあたりの「非本来的・本来的な生き方」の詳しい話は、実際に飲茶さんの本を読んでみて欲しいですし、100分de名著のハイデガー『存在と時間』の回も、合わせて観て欲しいなと思います。
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「じゃあ、本来的な生き方をしようぜ!」という話なるはずなんですが、
ここでさらに厄介なことは、これからの時代は、今現在の自分が「やりたい!」と思っていることであったとしても、ことごとくそれが、AIにより陳腐化されてしまう蓋然性が非常に高いということなんです。
もっというと、そもそも僕らは非本来的な生き方をベースとした生き方しか、ほとんど現状知らず、それをずっと追わされてきたわけですよね。
この構造は、まるで地方の小・中学生が、大人の仕事は農家や公務員や学校の先生しか職業をしらないようなものです。
逆に言うと、今のAIの進化は非本来的な生き方や、自己を道具化すること、その役割における生産性こそが爆上がりしているという話でもある。
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これはつまり「非本来的な生き方の終焉」ということでもあると思うんですよね。
ありとあらゆるホワイトカラーの業務の競争優位性がなくなるとは、つまりはそういうことです。
これは以前も書いたことがあるけれど、みんなが福音だ、民主化だ!と騒ぐ技術というのは、往々にして民主化ではなくただの無価値化です。
民主化されて、誰でも触ることができるようなってくれば、情報の非対称性もなくなってしまう。
最初のうちは、やる気がある人間と、そうじゃない人間の中にある非対称性で、少々頭の悪い人間をカモにできるかもしれない。
でも、インターネットが出てきた現代において、タイムマシン経営のようなものが全く通用しなくなったのと同じような原理で、そのボーナスタイムというのはすぐに終了してしまいます。
その時間軸のスパンも、現代はどんどんと短くなってきている。
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だから、良くも悪くも、職業ベースで人生を考えていると、いつまで経っても本来的な生き方には到達できない段階にまで来てしまっているということなんだろうなと。
現状は明確に「名前」がついていない、そうやって社会の中で記号化されていない、社会には未だ存在せず、肩書的に認識されていない生き方のほうに、これからのAI時代に必要な「本来的な生き方」があるはずなのです。
とはいえ、じゃあそれが全く新しい生き方なのかと問われたら、きっとそうじゃないとは思います。
それはきっと、もっともっと灯台下暗し的なものでもあるはずで。
なぜなら、たとえテクノロジーの進化は日進月歩だとしても、人間自体は一切変わらないわけだから。
5万年前から特段何も進化もせずに、洞窟の中で物語を語り合っていたわけですから。だからこそ、もっと哲学的に、そして文学的に、その本質に立ち返ることなんだろうなと。
これが、歴史の風雪を耐え抜いてきた思想や物語、そこに含まれている人間の葛藤に対して目や耳を向けてみたほうがいいタイミングがまさに今だと僕が思う理由です。
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さて、ここで再び冒頭の問いに戻りたいのですが、身体的な記憶に基づく説得力って、結局のところ、傷を背負っていることの説得力と同義と言っても過言ではないはずです。
「傷」という言葉が生々しくて辛かったら、単に人生の「シワ」でもいい。
人間が生きるうえで、望んだ通りにはいかなかった、ありとあらゆる事柄がきっとそれに該当すると思います。
僕らはそのようなそれぞれの人間の中に刻まれたシワの中で葛藤に苛まれたものからにじみ出る”何か”に信用を感じ取っているはずだから。
で、だとしたら、ですよ。つまりは自らの過去の傷や欠落感と向き合うことこそが、自分自身の話の信頼性、その担保にもなるとも言えるわけです。
それが既に自分の中に存在することが、人間の葛藤を抱えて生きているという事自体として、そのままこれからの説得力にもつながっていく。
決して無理に過去の傷をえぐる必要もないとは思いつつも、そこから紡がれる先駆的決意性のようなもののほうが、実は、とても力強い説得力を持つはずなのです。
もちろん、それが他人の思考を経由して生まれた「だから俺は、カンボジアに小学校を建てる!」みたいなテンプレ化されていた話だったらまったく、意味はないのだけれども。
それぐらい各人に刻まれているシワというのは、唯一無二なのだと思います。
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「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」
「でも実際にはどんな小さなことだって、自分の頭で考えるのはおそろしくむずかしい」
これは、村上春樹さんの長編小説『スプートニクの恋人』に出てくるセリフです。
AIが社会に広く浸透してきて、このセリフはより一層、本当に強くそう思います。
確か養老孟司さんの言葉だと思いますが、何でも効率化したかったら、そのまま早く死んだほうがいい。
河合隼雄さんも似たようなことを語っていて、こちらは以前もご紹介したことがあります。「それなら死んだほうがいい。楽でっせ、何も苦しいことはない」と。
それよりもむしろ「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える」というような姿勢で取り組めることのほうが、きっとこれからは大事なんだろうなと。
そのプロセス自体に喜びを感じられていること。さらにその葛藤や悩みから学び得たこと自体に、自分が飽きずに、立ち向かいながらずっと取り組み続けられること。
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それに集中するために、AIを徹底的に用いるというのが、きっと正しい方向性です。
葛藤を抱えてスパッと割り切れないところに、大きなヒントがあると思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。