最近、川上未映子さんの長編小説『黄色い家』をオーディオブックで聴き終えて、映画「あんのこと」を観に行きました。

どちらの作品も、貧困家庭に生まれて、毒親に育てられた子どもの話。

そして最後の最後まで、なんの救いもないままに終わってしまう話。

僕自身、いわゆるシャンパンリベラルみたいな人間を心から憎みつつも、とても安全な環境から「黄色い家」や「あんのこと」を見ている自分自身もその同類だと思うと、本当に自己嫌悪に陥ってしまいます。

ただ、それでもやっぱり触れずにはいられない。

これは一体なんだろうな、といつも思ってしまいます。ものすごく個人的な話ではありますが、今日はこのあたりの感覚について改めて考えてみたい。

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この点、参考になるなと思うのが、村上春樹さんの長編小説『アフターダーク』の話。

この小説の中には、深夜に仲間たちと集まって楽器の練習をするような、決して真面目とは呼べなさそうな雰囲気の男子学生が、ひょんなことをきっかけに裁判所に通うようになり、そこから司法試験を受けようと決意する話が語られています。

その意外な理由が、かなり個人的には刺さるものがあって、少々長いのですが、全文引用したほうがきっと伝わると思うので、そのまま引用してみたいと思います。

「何度か裁判所にかよって、事件の傍聴をしているうちに、そこで裁かれている出来事と、その出来事にかかわっている人々の姿を見ることに、変に興味を持ち始めたんだ。ていうか、だんだん人ごとには思えないようになってきたんだよ。それは不思議な気持ちだったね。だってさ、そこで裁かれているのは、どう考えたって僕とは違う種類の人たちなんだよ。僕とは違う世界に住んで、違う考え方をして、僕とは違う行動をとっている。その人たちの住んでいる世界と、僕の住んでいる世界とのあいだには、しっかりとした高い壁がある。最初のうちはそう考えていた。だってさ、僕が凶悪犯罪を犯す可能性なんてまずない。僕は平和主義者で、性格温厚、子供のころから誰かに向かって手をあげたことだってない。だからまったくの見物人として、裁判を高見から眺めていることができた。よそごととして」

「しかし裁判所に通って、関係者の証言を聞き、検事の論告や弁護士の弁論を聞き、本人の陳述を聞いているうちに、どうも自信が持てなくなってきた。つまりさ、なんかこんな風に思うようになってきたんだ。二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのぺらぺらの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中に あっち側 がすでにこっそりと忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。そういう気持ちがしてきたんだ。言葉で説明するのはむずかしいんだけどね」


僕も、大学時代には法学部で、ゼミの一環で実際に裁判所へ行っていたから、この話は本当によくわかるなあと思いながら読んでいました。

というか、あのときに感じていた言葉にならない違和感というのは、まさにこれだったんだなあと、今になってやっと自分の実感値のある言葉として、言語化してもらったような感じがしています。

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そして、「このひとたちとの違いなんて、存在しない。」そのことを僕ははっきりと知りたいんだろうなと思います。

そこにあるのはものすごく薄い壁だと思う。というか、もはや壁なんて存在しないのかもしれない。

どうしても僕らは、犯罪者をテレビや何かで見ると、生まれつきあの人達は犯罪を犯すような人間であり、自らをそことは無縁の善良な人間側に置いてしまう。そこには、圧倒的な壁があると思いこんでしまう。

でも、そんな分厚い壁なんか存在しないんですよね。自分が想像しているような安全を担保してくれるガードレールなんてまったく存在しないし、自分は善良な人間でもなんでもない。文字通り、誰もが一寸先は闇なんです。

それを痛いほど突きつけてくれる場所や、それをよく理解できる場所やコンテンツのようなものを僕は求めているということなのかもしれない。

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僕はいつだってそれを確認しに行っている感覚があって、そのような作品を自ら望んで接しているのかもしれないなあと思うわけです。

それは「明日は我が身だから気合を入れ直そう」とか「人の振り見て我が振り直せ」とか、何かそのような偉そうな態度でもなく、もっと全面的に、根本的に引き受け直すことがしたいのだと思う。

それは、もっともっと「世界認識の構造転換」というようなイメージに近いです。

必死に、世界に対する認識を正しい方向に修正し続けている感じがあるんだといえば、より伝わりやすくなるかもしれません。

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人間は本当に愚かで弱い生き物であり、すぐに「あいつらと自分は違う」と絶対的な隔たりがあるように認識してしまう。

その無神経さを描いた作品が、最近であれば、映画『関心領域』に描かれていたようなナチス・ドイツのユダヤ人虐殺のような話なんだろうなと。

でも本当は、自分が今、この瞬間に「あちら側」にいたかもしれないし、彼らが今この瞬間に「こちら側」にいて、あちら側にいる自分を見ていた可能性もありえる。

その圧倒的な入れ替え可能性や、同一性のようなものを、強く身体感覚を通じて認識したいということなのだと思うんですよね。

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そして、ここで話を一気にひっくり返してしまうかもしれないんだけれども、この結界や薄い壁のような役割をしてくれるのが、僕は日々のささやかなルーティンなのだと思っています。

多くの人は、「ルーティン」や「習慣」というのを、より良い自分になるために取り組むものと考えていているはず。より理想に近づきたいと望む態度のもと「明日は今日よりもきっと良くなる」という希望のもとにそれらに取り組んでいる。

だからこそ、モチベーションとか、わけのわからない基準も当然のように持ち出してくるのだと思うのです。何かそこに明確なゴールがあるんだと信じ込んでいるから。

でも、そんなゴールなんてないんだろうなあと。

本来の目的は、小さな闇、すでに侵入しているかもしれない闇をそれ以上侵入することを防ぐことが、主たる目的なわけだから。

僕も日々の読書やこのブログ執筆、散歩、オーディオブックなど、代わり映えのない日常をおくり、似たような食事を取り、判で押したような生活をしている。

何か目標があるというよりも、ただただそれは闇の侵入から身を守るためなのかもしれない。

それを他人から自由度がなくてつまらないとか、ある種の狂気のように捉えられることも本当に多いのだけれども、そのことを通じて、ギリギリのところでとどまっている感覚は強くある。

そうすると、ルーティンに対する認識が全く変わってくるなと思います。

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だから、相手が大切にしているルーティンや習慣を聞いてみると、相手の世界認識も大体のことはすぐに理解できる気がしています。

何のために行っているのか、そこに明確なゴールを設けているのか。そのゴールに到達したら、その努力はすべてやめてしまいたいと思っているのか。

もし闇の侵入を防ぐものであれば、そのルーティンには終わりがない、ゴールがないと思うはずで、継続自体が、その目的となるはずだからです。

わかりやすいアガリなんてものも存在しない。人間にできるのは、ささやかな闇の侵入に対する圧倒的に非力な抵抗ができるだけなんです、本当に。

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これは、同じく村上春樹作品『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくる「文化的雪かき」の話にも近いなあと思っていて。

主人公はフリーのライターで、自分の仕事には大した価値があるなんて思ってもいない。でも、他のライターが手を抜くところでも、きっちりと取材をして、丁寧に書き上げる。そのような仕事を「文化的雪かき」と主人公の「僕」は多少自嘲的気味に語ります。

作品の中で何度も繰り返し用いられる表現で、とても印象的な言葉ですよね。

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僕は北海道出身なので、本当の「雪かき」を、子供時代によくやらされていました。

北海道では基本的には雪かきは子どもの仕事です。そしてこれが子供時代の自分にとっては本当に絶望的だった。完了したと思ったら、また翌朝どころか、その日の午後から雪が降り積りはじめるわけだから。

明日もまた積もることがわかっていて、今やっているこの作業は一体何なんだと絶望しそうになる。都内の中学生は、雪かきなんてしなくていいんだから、高校受験なんて楽勝で当たり前だと当時は割と本気で思っていた。

でも、その絶望的な作業には意味なんて最初から存在しなかったんです。その意味のない自然の侵入に対しての、ささやかな抵抗をし続けることが大切なことであって、そもそも、そのような絶望しそうな作業の連続なんだよな、人生って、今になって本当に強く思います。

でも決してそれは不幸なことではないんですよね。山のてっぺんまで岩を運んでは、また地上に戻されてそれ無限に繰り返す、あの有名な「シーシュポスの神話」なんかも、この「雪かき」の話ともとても良く似ているなと思う。

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僕らは、少しずつ侵入してくる闇に対して淡々と、そして粛々とルーティンの積み重ねをする以上に対抗する手立てを持たない。

もちろん、それをしてみたって侵入してくるものが闇でもあるわけだから、祈りぐらいの微々たる効果しか持たない。

それが文字通り、キリスト教の祈りや仏教などのお経、そして神道の祝詞のようなものを生んだのだとも思う。人類の宗教性は、これを本当にちゃんと理解していたんだなと感動する。

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なにかに開き直ったり、自分はゴールに到達したと勘違いして享楽的になったり、やることがなく「なんか暇だな、なんか退屈だな…」から始まる闇が、一番怖いなと。

そうやって「あいつらと俺は違う。自分は特別だ」と少しでも思った瞬間に、一瞬にして闇は容赦なく自らのもとに訪れる。

それが感染症のように蔓延し、国民病のようになると、戦争のような道へとまっしぐら。

一人ひとりが、それぞれの暮らしの中で、それぞれの「雪かき」作業をし続けるほかない。そのために僕は、これからもドヤ街を散歩し続けるし、悲しくとも実話をベースにしたそんな物語にも触れ続けていくんだろうなあと思いました。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。