外国人差別みたいな話をニュースで見聞きするたびに、これはたぶん、「外国人」という言葉そのものに、どこかボタンの掛け違いがあるんじゃないかと思うことがなんだか増えてきました。

そもそも、僕たち日本人にとっての「外人」という言葉は、ほんとうに文字通りの意味しか持っていない気がします。

その人が、どんなアイデンティティを抱えているのかとか肌の色とか、そういうことはほとんど関心がなくて、そこに込められているのは文字通り「外の人」という、ただそれだけの感覚なんだろうなあと。

言い換えると、自分たちの世間、その外側からやってきた人。つまり、日本人であろうがなかろうが、ウチの外から来た人は、みんなどこかで「ソトの人」になる。

お国のソトからやってきたひとは全員、外人になる。

そして、さらに興味深いのは、そのソトの人を、僕たち日本人は決して雑には扱わないということなんですよね。

むしろ、ソトの人だからこそ、一定の距離を置いて、丁寧に接するし、失礼のないようにも心がけるわけです。

だからこそ、そこに「さん」もつく。「外人さん」というように。

京都のひとが「外人さん」とか「よそさん」と言うときの、あの感じにとても近いのかもしれません。

ただ、そのような扱いがときに、差別的に感じられてしまうわけですよね。ここに、なかなか解けないジレンマがあるような気がしているんです。

そして、このあたりをちゃんと言葉にしておかないと、外国人差別をめぐる議論は、たぶん一生平行線をたどってしまうんだろうなとも思っています。

ーーー

念のため、あらかじめ書いておくと、僕はここで「日本において、外国人差別なんて一切存在しない」と言いたいわけでは、まったくありません。

日本国内にも外国人差別は明確にあると思います。外国人への偏見もあるし、不当な扱いも、現にある。

そのこと自体を否定する気は一ミリもないです。

ただ、それでもなお、この問題が「外国人(への)差別」という言葉で語られるとき、いつもどこかで議論が噛み合っていないように感じてしまう。

今日はそのことについて、僕なりに少し丁寧に考えてみたいなと。

ーーー

じゃあ、そもそもなぜ噛み合わないのか。

その理由は、日本語における「外」という感覚が、国籍や人種やアイデンティティ以前の、もっと根っこのところにある「ウチとソト」の感覚に結びついているからだと思うのです。

言い換えると、日本語の「外人」は、英語の foreigner と似ているようでいて、どこか違う。

それは「あなたは何者なのか」を問う言葉というよりも、「あなたはいま、どこに位置しているのか」を指す言葉に近いような気がするのです。

ウチの中の人なのか、それともソトからやって来た人なのか。

日本人同士であっても、会社の外の人、村の外の人、業界の外の人、親族の外の人は、ある意味で全員「よそさん」になる。結果として「よそはよそ、うちはうち」という区別にもつながる。

ーーー

この「よそさん」という感覚が、僕は日本人及び日本文化を考えるうえで、見過ごされがちだけれども、とても大事なところだと思っています。

「よそから来はった人」は、全員失礼のないように接するべき人であり、丁寧にもてなすべき人という感覚が、日本人には明確にある。ここが中国なんかと大きく異なる点です。

日本社会というのは、ソトの人をいきなり排除するわけではないんですよね。むしろまず、客人として丁寧に迎え入れる対象とみなす。それは「マレビト」としての「カミ」概念なんかにも、見事に通じる話。

馴れ馴れしくしちゃいけないし、踏み込みすぎないようにもする。

けれどそれは、裏を返せば、その人は最後まで客人である、ということでもあるわけです。

客人としてどれだけ大切にされても、客人はどこまでいっても客人であって、内側の世間のルールを守るまでは、一生ウチの人にはならない。

逆に言えば、日本人は、ソトのアイデンティティを抱えたまま、ウチの人間になろうとするのは、愚の骨頂だと無意識に思っているわけです。

ーーー

このあたりの感覚は、日本人の自己紹介の仕方なんかにも、けっこうはっきりと表れている気がします。

昔の人が「自分は何者か」を語るとき、まず名乗ったのは、個人としての能力や職能ではなくて、「自分がどこに属しているか」だったはずなんですよね。

大河ドラマで観るように、なになに村のだれだれや、どの藩やどの一門に連なっているのか。

「私は何者か」というそんな自己紹介の冒頭が、まず「どこのウチの者なのか」として語られていた。

そしてこれは、決して昔だけの話ではないと思います。

いまでもよく海外経験が長い人たちから日本的自己紹介が批判されるように、僕たち日本人は、自己紹介の場面で、職業そのものよりも先に、所属する組織や会社、地域名のほうを名乗ってしまう。

それっていうのは、個人のアイデンティティを語っているようでいて、実際にはまず「どのウチに属しているのか」を差し出しているのだと思います。

渡世人として、地元を捨てたことになっているはずの寅さんでさえ「「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。  帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、  人呼んでフーテンの寅と発します」と語る、あのおもしろさ。

つまり、人はまず、「個人として何者か」ではなく、「どこのウチの者か」その関係性として現れることを見事に言い表しているなと思います。

ーーー

この話は、大澤真幸さんが『むずかしい天皇制』という本の中で書いていた日本的な「私」と「公」の話とも、どこかでつながっている気がするんです。

西洋的な public と private は、比較的はっきりと区別されるそうです。

公共性と私的領域は、別々のものとして、独立して成り立っている。

でも、日本における「私」と「公」の場合はそうではないと大澤さんは書かれていました。

もっと相対的な区別として理解されてきた、というような話です。

ここがすごくおもしろいなと感じていて、僕の中で忘れられない話のひとつです。

ーーー

たとえば、ひとりの武士には、自分の家族や親族を中心にしたイエがある。

その上に藩があり、さらにその上に徳川家があり、幕末になると、天皇を中心とした「日本」という、もっと大きな公が立ち上がってくる。

で、家族から見れば、藩は「公」だけれど、徳川家や日本全体から見れば、その藩はひとつの「私」になるのだと。

そして、そんな徳川家でさえ、幕藩体制のなかでは最大級の「公」だったはずなのに、幕末の危機のなかでは、ひとつの「私」に転じてしまう。

つまり、日本における「公」は、抽象的な公共空間というよりも、より大きなイエ、より大きなウチとして立ち上がる。

村、藩、国家はスケールは違っても、構造はどこかで似ていて、どの組織集団のサイズであっても、ウチとソトの両義性を持っているわけです。

ーーー

ここで僕がものすごくハッとさせられるのは、日本の「公」というのは、ウチとソトを消すのではなくて、より大きなスケールでそれらを作り直す営みなのではないか、ということなんです。

公が大きくなっても、ソトがなくなるわけではない。より大きなウチが生まれて、その外側に、また新しいソトが、自然発生的に生まれていく。

だとすると、その外側から来た人全員が、日本人の感覚としては「外人さん」になるということです。

ーーー

だから、日本人にとっての「外人さん」は、肌の色や民族だけを指しているわけではない。

もっと根っこのところでは、「ウチの外側から来た人」という意味を帯びている。

繰り返してしまうけれど、だからこそ、丁寧に扱うし、客人として失礼のないように接する。でも、その丁寧さは、成員として迎え入れることとは、やっぱりどこか違うわけです。

ここが、ほんとうにむずかしいところだと思っていて。

「外人さん」と言っている側は、敬意を払っているつもりなんですよね。でも、受け取る側からすれば、自分は「外」と名指され、いつまでも距離を置かれ、どれだけここに住んでも、どれだけ言葉を覚えても、ウチには入れてもらえない、そんな疎外感を感じてしまう。

同じひとつの言葉のなかに、敬意ある距離と、越えられない境界線が表裏一体で同居してしまっている。だから、話が一向に噛み合わない。

ーーー

「外人さん」は差別語なのか、それとも敬意ある言葉なのか。この問いに簡単には答えられないのは、たぶん、そのどちらもが、同程度に含まれてしまっているからなんだと思います。

どちらか一方だけを正解にしてしまうと、この問題そのものが、すっと見えなくなってしまう。

そして、さらに厄介なのは、日本人は「ウチの人間」に対して、非常に厳しいんですよね。

うちの人間であれば、うちのルールを守れと、必ず迫ってくる。それこそが日本的な「世間」の圧力そのものです。

京都人が、同じ京都人同士になった瞬間に、少しでも京都人らしくない振る舞いをした途端、いけず文化を発動するように、です。

また、よく親が子どもに叱るとき「そんなことをするなら、あなたはもうウチの子じゃありません!」と叱るように、です。

これもまたウチ、つまり共同体のルールを守れ、自己を貫くな!分際をわきまえろ、という話ですからね。

また、村八分というのは、このウチのルールを守れない人間に対して行われる制裁そのもの。家族であっても、それは変わらない。

でも西洋や中国などは家族概念、つまりプライベートであれば、それは厳しく接する対象では決してない。

何があっても、たとえ家族が犯罪を犯しても、包摂する対象となる。だって家族なんだから。でも日本人は、ウチのルールに反すれば、たとえ親子であっても、勘当しても構わないことになっている。

それはウチのルールを守ることが、ウチの人間であることの証しとしてみなされているからこそ起きてしまうことです。

ーーー

ただ、ここでくれぐれも誤解しないでほしいのは、ここで僕が言いたいのは「だから日本も国際基準のほうに合わせるべきだ」というような話ではありません。

言い換えると、西洋のパブリックとプライベートが正解だなんて一ミリも思っていない。それは西洋文明がつくったルールにすぎない。

日本には日本の、公と私の感覚がある。ウチとソトの感覚があるんです。

それゆえに、客人を丁寧にもてなす文化があるし、そこには繊細さや、美しさも同時に存在している。

また、何よりも、この小さな島国で共に生きるための生活の「知恵」でもある。

それを「世界基準に合っていないから捨て去れ、変えろ!」と言うのは、たぶん違う。それこそ植民地支配的な思考やまなざしによる暴論に、僕には思えてしまいます。

ーーー

ただ、その感覚が、現代の「外国人差別」という言葉で語られるとき、別の文法とぶつかってしまっているからこそ、問題になってしまうんだということを、僕はここでは丁寧に言挙げしておきたいなと思います。

外国人差別をめぐる議論がどうしても平行線になるのは、両者が見ているものが、そもそも圧倒的に違ってズレているからなんじゃないか、と思うんですよね。

一方は「外人さん」の「外」を、国籍や人種への烙印(揺るがしがたいもの、生まれた瞬間に確定してしまうもの)として捉えていて、もう一方は、それを「関係性」の間でクルクルと入れ替わってしまうようなひどく曖昧な意味合いとして使っている。

そうすれば、話が行き違うのも当然です。

ーーー

だから、この問題は「外国人差別をするな」で終わる話でもないし、「日本人に差別意識なんてない」で終わる話でもない。

そのあいだに横たわっている、日本語の「ソト」の感覚、日本社会の「ウチ」の感覚を、ちゃんと理解する必要があるはずですし、このズレを見ないまま、差別だ、差別じゃない、と言い合っているかぎり、議論はきっと一生平行線をたどる。

だからまずは、そのズレ自体をちゃんと言葉にしておきたかったので今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。