先日のブログで、「礼儀正しくある前に、魂を殺すな」と書きました。
この記事を書いたあとのおまえが言うな、という話なのは重々承知しているのだけれども、それでもやっぱり「魂」という言葉は、どこかでズルいなと思っている自分がいます。
「あなたのなかの倫理を大事にしろ」と言われたら、「知らねーよ、そんなもん」と思う人は多いはず。
でも「魂を殺すな」と言われると、なぜか一瞬、胸ぐらをグッと掴まれてしまうような感覚があるはずです。
そこにまったく心当たりがない人間なんていないんですよね。
もちろん、「魂」という言葉は、そのカードの切り方や出し方を間違えてしまうと、一気に場が白ける言葉でもあります。
でも、ちゃんと手順を踏んで、差し出されると、人はかなり高い確率で反応してしまう。
それが、本当に不思議でならないなあと。
なぜ僕らは、ここまで「魂」という言葉に反応してしまうのだろうか。今日はそんなことを別途あらためて考えてみたいなと思います。
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で、そんなことをWasei Salonのタイムラインに問いとして書いていたら、Ryotaroさんがコメントで、こんなことを教えてくれました。
鬱からの回復とか、毒親に育てられたエピソードが人の耳目を集めるのも、魂の生き死にが関係しているのかもしれませんね、と。
読んだ瞬間に、まさにそうだなと思いました。
人は、ただ「つらい話」に反応しているわけではないのだと思います。もちろん「かわいそうだから」でもない。
その人のなかの何かが、一度たしかに萎れていった。でも、そこからもう一度、生きるほうへ戻ってきた。
その往復運動に対して、僕らはどうしようもなく反応してしまう。
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で、ここで思い出すのが、能楽師・安田登さんの話です。
以前、内田樹さんとの対談本の中で、安田さんが「しぬ」と「いく」について語っていました。
https://x.com/hirofumi21/status/1497406837213507586?s=20
「死」という字や音は、もともと中国から入ってきたもので、それを日本語で動詞にするなら「死す」になる。でも、僕たちはふだん「死す」とは言わずに、「しぬ」と言う。
では、その「しぬ」とは何なのか。
安田さんは、それは「萎ぬ」なのではないか、と語っていました。植物がしなしなと萎(しお)れていくように、人間のなかの何かが力を失っていく、それが「しぬ」だ、と。
逆に、水を与えられて、いきいきと張りを取り戻していく。それが「生(い)く」。
この話を補助線として初めて受け取ったとき、僕にはなんだかものすごく腑に落ちるものがあった。
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そして、そう考えると、若い人がすぐに「死ぬ」とか「死んだ」とか言うのも、少し違って見えてくるはずなんです。
大人はつい、「命を軽く扱うな」と若者のそんな投げやりな言葉に眉をひそめる。
でも、あれは命を軽んじているというより、自分のなかの生命力が一瞬しおれた感覚を、かなり正確に言い当てているだけなのかもしれないなと。
肉体が死ぬわけではない。でも、気力が萎れる。世界に向かって伸びていたものが、ふっと折れるその瞬間を、いちばん短く直感的に言うと「しぬ」になる。
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さて、ここまで来ると、「魂」という言葉も、急に抽象的なものではなくなってくる気がします。
魂とは、立派な精神性のことではない。もちろん、崇高な志や、揺るぎない信念のことでもない。もっと手前にある、自分のなかの生命力の根源のようなものだと僕は思います。
それが萎れているのか。それとも、生き返っているのか。
僕ら日本人はたぶん、その変化に、ものすごく敏感なんだと思うんですよね。
また、だからこそ、特に若い世代が過剰なまでに仕事における「モチベーションの維持の仕方について」聞きたがるのも、きっとこのあたりの感覚と深くつながっているはずです。
あれは、一見するとモチベーションの話をしているようで、本当はモチベーションの話ではないのだと思う。
本当は、若者なりに「魂の生き死に」について話したがっている。
「先輩は、日々の仕事をするなかで、どうやって自分の魂を萎れさせずにいるのですか?」本当は、そう聞きたいのだと思います。
でも、今の世の中でそんなことを言えば、笑われてしまうのは、目に見えているわけです。
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で、ここで思い出すのが、河合隼雄が『中空構造日本の深層』のなかで書かれていた話です。
河合さんは、多くの現代人が抑圧しているのは、フロイトの時代とはむしろ逆に、「霊」あるいは「魂」の問題ではないか、と語っていました。
フロイトの時代には、大学教授が「性」のことを語るのに顔を赤らめなければならなかった。けれど現代では、大学教授は「霊」のことを語るのに顔を赤らめなければならない、と。
この指摘は、本当にそのとおりなんだろうなあと思います。
現代人は、「性」や「欲望」については、かなりあけすけに語れるようになった。
むしろ、それを語ることは合理的で、科学的で、人間理解として正しいことだとみなされている。
でも、「魂」や「霊」や「聖なるもの」について語ろうとすると、途端に顔を赤らめなければならなくなる。「怪しい、非科学的だ。スピリチュアルだ」そうやって片づけられてしまうわけです。
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だから本当は、「魂をどうやって生かし続けるのか」と聞きたい場面においても、僕らはそれを「どうやってモチベーションを保つのか」という便利なビジネスカタカナ用語に置き換えるしかなくなる。
でも、その言い換えによって、かなり大事なものがこぼれ落ちてしまっていると僕は思います。
「モチベーション」と言った瞬間に、それは単なる「やる気」の管理の話に成り下がってしまう。
結果的に、上司世代のひとたちはすぐに「モチベーションなんかに頼るな。やるべきことは、やる気がなくてもやれ、それがプロなんだ」と返してしまう。
そして、そんなやる気管理みたいな話に回収されてしまうから、余計に若者たちの気持ちや魂は萎えていってしまう。
これは単なる若者の甘えや、それを叩き直す根性論的な話ではなくて、魂について話をする言葉や空間を失ってしまった現代社会で、魂の生き死にをどうやって語るのか、という問題なのだと僕は思います。
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そして、ここまで書いてふと思ったのは、この感覚って、けっこう日本的なものなのかもしれないなと。
思えば、日本人は昔から、生命的な過剰さにずっと惹かれてきた気がします。
桜の花盛りや、新緑のまぶしさ。梅雨に濡れた山川草木や、夏の濃い緑や秋の実りなど。
生命が一気に立ち上がってくる瞬間に、僕らはどうしようもなく心を動かされてしまう。
でも、おもしろいのは、それだけじゃなく、同じくらいその生命が枯れていくこと、散っていくこと、失われていくことにも、僕らは感情を寄せてきたわけですよね。
満開の桜だけじゃなくて、わざわざ散り際の桜も見にいく。紅葉の美しさは、葉が死に向かっていく過程でもあるわけです。それが、もののあわれ、ということなのだと思います。
つまり日本人は、「生く」感覚だけを愛してきたわけじゃない。
生命が盛り上がる瞬間と、それが萎えていく両方の瞬間に、ものすごく敏感だった。
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そう考えると、「萎ぬ」と「生く」は、ただの言葉遊びではなくて、この日本列島の風土のなかで、僕らがずっと見続けてきた生命のリズムそのものなのかもしれません。
その循環を、僕らは外の自然のなかにも、そして自分の内側にも、ずっと見てきた。
というよりも、その自然の移ろいに、自らの魂を付託してきたのだと思います。
自然を「自分とは別の観察対象」として客観的に眺めてしまうのではなく、自然の変化と自分の内側の変化を重ね合わせる。
それが、日本の短歌の文化であり、日本の「うた」の文化そのものだったのだと思う。
日本の風土が、そうやって長い時間をかけて、僕らの感覚を育ててきたのだと思う。
そして、その自然の移ろいを「私とは別のもの」としてではなく、「私そのもの」として感じる精神性を見事につくってきた。
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これは発酵デザイナー・小倉ヒラクさん風に言えば、ヨーロッパは「テロワール『と』私」であって環境を対象化することに対し、日本の場合は「風土『は』私」と自己と同一化する傾向にある。
僕たち日本人は、風土とは切っても切り離せない関係にあって、日本の風土は観察の対象というよりも、私の一部であり、私そのものなんだ、と。
そして、それは良いことばかりでもなくて、ここに日本人のメンヘラ性の起源もあると見抜いているのが、ヒラクさんの慧眼なんです。
日本人のメンヘラ性は、風土に起因する。
自然は優しくあるかと思ったら突如暴力的にもなる、DV気質の恋人のような存在だ。関係性があまりに近すぎかつクリティカルであるために、自然=隣人の一挙手一投足に過剰に反応せざるをえない。結果、推すことと拒絶することとが同じ地平に並んでしまう。日本的風土における表裏一体。
引用元:『僕たちは伝統とどう生きるか』
こちらも圧倒的な真理だなと思います。
ただ、ここでふと思うのは、この話は、決して昔話では終わらないということです。
自然という、優しくもあり、突然暴力的にもなるメンヘラの隣人。その一挙手一投足に過剰反応しながら、僕らは「萎ぬ」と「生く」の感覚を、これでもかと研ぎ澄ましてきた。
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でも、いま僕らの隣に、まったく別の存在が立ちはじめている。
それがまさに、AIなんだと思います。
AIは、絶対に暴れないし荒れません。萎れないし、気分にムラもない。どれだけこちらが揺さぶっても淡々と、穏やかに、正しい答えだけを返してくる存在。
メンヘラDV気質の恋人とは、まるで逆の存在です。どこまでも安定していて、どこまでも均一化されている。
だとすると、自然というあの過剰な隣人に、あれだけ過剰反応しながら魂を震わせてきた僕らは、一切ゆらがない相手と向き合ったとき、いったいどうなるのだろうか、と。
そして、この感覚は、AI時代だからこそますます大事になっていくんじゃないか、というのが、今日僕がいちばん書きたかったことでもあります。
別の言い方をすれば、AIというのは、ある意味で「季節を持たない存在」なわけです。
淡々と、いくらでも生成し続けてくれる。ラボの中で培養されていくウイルスのイメージに近い。
それは本当にすごいことなのだけれど、その一方で、人間の側が、自分のなかの季節を感じ取る力を、だんだん失っていくんじゃないか、という怖さもある。
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そして、これからの時代はたぶん、何を学べばいいのかが、どんどんわからなくなっていくんだと思います。
もちろん、価値のないスキルなんてないとは思います。どんな経験にも学ぶ意義も意味もある。
でも、「これを身につけておけば将来安泰です」と言い切れるものは、AIのせいで、これからどんどん少なくなっていく。
そうなると、いま僕たちが「将来のために」と思って積み上げている仕事や学びの多くは、長い目で見れば、どこかで必ず「愚行権の行使」に近づいていくのだと思う。
どれもそれなりに意味はある。ただ同時に、どれも決定的な正解ではない、そういう感覚です。
だとすれば、最後に残る基準は、たぶん今日話してきたコレに尽きるんじゃないか。
それが今日の僕の大胆な仮説でもあります。
つまり、それをしているとき、自分の魂は萎れているのか。それとも、生き返っているのか、です。
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もう、生産性や、コスパ・タイパだけでは決められない時代です。
魂を騙していても、なんとなく寿命をまっとうすることができたのがこれまでの時代だとすれば、現代はもう残念ながらそうじゃない。
いや、もちろん生産性などがどうでもいい、という話ではないです。
ただ、それらだけを追いかけているうちに、自分のなかの何かがしなしなに萎れていくのだとしたら、その合理性は、どこかで一度疑ったほうがいいタイミングだということです。
他人から見れば、まったくの無駄に見えることでも、それをしている自分のなかの何かが「生く」方向に向かっているなら、それはきっと、AI時代にもやる意味があるはずで。
逆に、世間的にはどれだけ正しく見えても、続けるほどに自分の魂が「萎ぬ」方向へ向かっていくなら、どこかで一度、立ち止まったほうがいい。
魂が生く愚行と、魂が萎ぬ合理性。
AI時代には、たぶんこの見分けが、ますます大切になっていく。そしてそれは、かなり個別具体的で、十人十色でもあるはずです。
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だから、今日書いてきた「魂を殺すな」というのは、別に立派に生きろ、という話ではなく、崇高な志を持て、という話でももちろんない。
自分のなかで、いま何が芽吹いていて、何が花開いていて、何が萎れかけていて、何が枯れようとしているのか。
その微細な季節のような移ろいを、見殺しにするな、ということなのだと思っています。
それが「自分の内側の心の声に耳を澄ます」という行為でもあり、最後の最後は、そこを自分自身で感じ取るしかない。
AIの平均回帰させようとする引力は、圧倒的に正しいし強いのだけれども、その分、日本人の感覚としては、否応なくものすごく萎えてしまう。それがきっと、現代の一番の問題なのだと思います。
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魂の「萎ぬ」感覚と「生く」感覚。
僕自身、ブログを毎日書くときも、魂が生き生きして筆が一気に進むときと、書いていること全部正しいのに、なぜか魂がドンドンと萎えていく感覚があり、筆が一切進まない感覚がある。
この違いこそを、大事にしたい。
それはたぶん、AI時代に新しく必要になる能力であり、同時に、この風土のなかで、僕ら日本人がずっと受け継いできた、いちばん古くて、いちばん身体的な感覚なのかもしれないなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
