Ryotaroさんが、Substack上で、最近のnoteについて書いていました。「どのジャンルの記事もAIに汚染されている感じがして、ちょっと萎える」と。

それを読んでいて、たしかにそうだよなあと。

最近のnoteには、どこか似た感じの文章が量産されてしまっている気がします。

きれいにまとまっていて読みやすく、内容自体も一切破綻もしていないのだけれど、その分、毒にも薬にもならない文章のオンパレード。

ただ、そのときに、ふと思ったんですよね。これは本当に、AIがnoteを汚染したという話なんだろうか、と。

むしろ、noteという場所がもともと持っていた「ちゃんとした文章を書くような場」という空気が、たまたまAIの得意な文体と相性が良すぎてしまったんじゃないか、と。

今日はこの気付きから、唐突ではあるけれど、人間の魂について、考えてみたいと思います。

ーーー

この点、noteには独特の清潔さみたいなものがありますよね。

Xの野蛮さに対抗し、広告が一切なく、ちゃんと考えたことを書く場所として最適なクリーンなイメージ。

漠然とですが、街で言えば代々木上原とか、自由が丘とか、田園調布みたいなイメージ。

それ自体は大変すばらしいことだと思います。でも、その清潔さは、同時に「ちゃんとしなきゃ」と姿勢を正すための圧にもなる。

ちゃんと考えて、ちゃんとまとめて、読後感のいい文章にしなきゃ、と。そうやってみんながプレッシャーに感じるから、マナーのつもりでAIをくぐらせてしまって、いつの間にか、学校の読書感想文のような70点の文章が量産されてしまう。

つまり、AIがnoteを変えたというより、noteという場が、AIをマナーとしてくぐらせるトンマナを、よくも悪くも生み出してしまっているということだと思います。

ーーー

で、もちろん、これはnoteだけの話じゃないわけです。

すべてのプラットフォームにはその場におけるトンマナみたいなものが存在しているし、それこそが、プラットフォームごとの色や文化でもあったりする。

そして僕らユーザー側は思っている以上に、場の雰囲気に規定されている。いや、もっと言えば、その場に合っていることしか、基本言っていないのかもしれないとさえ思います。

しかも、それはほとんどの場合、無意識なんです。

自分の内側から自然に言葉が出てきているようでいて、本当は、その場で言っていいことやその場で恥ずかしくないこと、その場で期待されていることなんかを、無意識的に選び取っているだけ。

ーーー

この点、以前、「日本社会は、『あなた』を受け入れているわけではない。」という記事を書きました。


日本人は、個人そのものよりも、まず場に対して姿勢を正しているんじゃないかと。

神社では神社らしく、会議室では会議室らしく、夜の街では夜の街らしく振る舞うのが日本人です。

昔から「聖」と「俗」が隣り合わせで存在していて、そのどちらにも、気軽に足を運ぶのが日本人です。西欧の階級主義と明確に異なる点が、ここにはある。

つまり、アイデンティティや個人主義的な意識を持たない日本人にとっての「場」というのは、ただの背景じゃない。かなり強い行動規範であり、発話のルールそのものになっているわけです。

言い換えると、場は、発話の容器ではなく、場そのものが、発話の文法そのものなんだと思います。

ーーー

これは、リアルな対談やインタビューでもまったく同じだと思っています。

僕はこれまで、いろんな場で対談イベントや対話形式のイベント、インタビューを行ってきましたが、その経験から思うのは、場の雰囲気が9割と言っても過言じゃない、ということです。

同じ相手でも、場所が変われば話すことはガラッと変わってくるし、同じ質問でも、その場の空気で、返ってくる答えがまるで変わってしまう。

たとえば、ゲンロンカフェとかは、ものすごくわかりやすいなあと思いながら、いつも眺めています。

五反田という山手線の内側の駅にも関わらず、雑多で怪しい街の雰囲気があって、さらにゲンロンカフェが入っているのは、駅近の雑居ビルの中なわけです。

あの狭さと観客との距離感があって、積み重ねられてきたイベントの記憶(壁に書かれた著者のサイン)など、諸々すべての要素が重ね合わさって、あの場の雰囲気を支えているなといつも思います。

もしあれが、品川のピカピカの高層ビルの中にあったら、きっとまったく違う場所になっていたことは間違いない。

同じ登壇者が同じテーマで、同じ長尺で話してみても、出てくる言葉は、まったく異なるものになるはずです。

ーーー

ゲンロンカフェには、明確に「ここでは少し危ないことを言ってもいい」という空気があるなと思うのです。

きれいにまとまりすぎたことだけを言うことのほうが、むしろつまらない、と。

予定調和の、場面的に正しいことだけ言って終わると、どこか物足りない、そういう場所として唯一無二の輝きを放っている。

で、それを物語るかのような場面が、先日配信されていた「箕輪厚介×東浩紀×植田将暉    正気とはなにか」の中にありました。

ゲンロンカフェの若手・植田さんの、場面的にはとても正しい質問に対して、箕輪さんが卒なく切り返していたんですよね。ただ、そのやり取りを見て、東さんが「ダメ、魂を引き出せていない」とダメ出しした。

この言葉が、ものすごく印象的だった。

つまり、正しい質問をすることと、魂を引き出すことは全然違う。場面的にふさわしい問いを投げることと、相手の奥にあるものに触れることはまったく違うわけです。

もちろん正しい質問が悪いわけじゃないし、礼儀正しいやり取りが不要なわけでもない。でも、そこだけで終わってしまうと、人は「その場で求められている自分」を演じて終わる。

そうすると、魂が一切出てこなくなってしまうわけですよね。

ーーー

そして、その魂が出てきても、受け止められる場所があるかどうか、実はいちばん大事なんだと思います。

本当の、安心安全な空間やコミュニティというのは、もしかしたらそういうことなのかもな、と。

それを象徴するかのように、東さんはその配信の冒頭で、箕輪さんに対してドストエフスキーの『地下室の手記』を強く勧めていました。

この話も、今回の内容と深くつながっている気がします。

『地下室の手記』は、うだつのあがらない中年男性の主人公が、地下室で書いているという設定だから、僕らはあの主人公の狂気を受け止められる。

もしあの主人公の独白が、明るい会議室やきれいなカフェ、屋上なんかで語られていたら、ただの危ない人の話にしか思えない。

だから『屋上の手記』ではやっぱりダメで。

でも、「地下室」という陰湿な場があるからこそ、あの怨念や屈折や卑屈さのなかに、人間の「魂」を強く感じてしまう。というか、そのように納得感を持って読んでしまう読者の僕らがいるというわけです。

そして、そうやって読んでしまう僕らが、あの狂気の中にこそ、主人公の魂だけでなく、ドストエフスキーの魂も感じられる。そして、それがさらに敷衍されていき、ロシア国民の、もっと言えば人類全体の「魂」がこもっているようにも感じてしまう。

つまり、狂気は、内容だけでは成立しない。それを受け止める場所が必要になる。

極端に言えば、魂は、どこで語られるかによって狂気にも、文学にも、迷惑にも、祈りにもなりえるということです。

ーーー

で、最近、松岡正剛の千夜千冊を読んでいたときにも、似たようなことを思ったんですよね。

松岡正剛のすごいところって、裏社会にもズケズケ踏み込んでいくところなんです。

普通なら、そこに触れるのは自分にとってマイナスじゃないか、と思うような対象にも、ちゃんと踏み込んでいくし、書きにもいく。

最近読んだのは、ヤクザの話。

でも、それは単なる怖いもの見たさじゃないと思います。逆に、観ようとするものが常に一定に定まっているからこそ、その裏側も同時に観に行くんだと思うのですよね。


洋服も、裏返して縫い目を見たときに、表側の構造が深く理解できるように、表の構造は必ず、裏の構造、その野蛮さや剥き出しの欲望によって支えられている。

だから松岡正剛は、裏にもズケズケと踏み込んでいくのだと思います。

でも、ここがほんとうに大事な部分でもあって、裏に行きっぱなしにはならない。裏を見たうえで、もう一度、表に戻ってくる。

もしこれが、表で止まると、礼儀はただの作法になるし、裏に行きっぱなしだと、ただの無礼になり下がる。

ちゃんと裏まで行って、もう一度表に戻ってくること。逆に言うと、表を本当に守りたいなら、一度その裏まで降りていかなきゃいけない。

その姿勢がなんとも素晴らしいなと思うし、その場がもたらす引力を、誰よりも理解していたからこそ、世間の目なんて気にせずにドンドン裏や奥へと降りていったんだろうなあと思います。

ーーー

で、今日のこの話は、Wasei Salonにもまさにつながる話だと思っています。

Wasei Salonでは、ずっと「敬意と配慮と親切心、そして礼儀」を大切にしてきました。

それ自体は、今でも決して間違っていなかったと思います。声の大きい人だけが幅を利かせないように、安心して居続けられる場所にするために必要な標語だった。

でも、今はあえて、その言葉を一度疑い直したほうがいいのかもと思っています。

なぜなら、表面的に受け取られた瞬間に、場はすぐ「美しい世間」になってしまうから。そして、表面的な「敬意と配慮と親切心、そして礼儀」は、AIがいちばん得意な分野になってしまったから。

たしかに、場はそれで清潔になるのだけれど、でも、肝心な「魂」が出てこなくなる。

これは本当に怖いことだと思います。礼儀が、魂を守るためじゃなく、魂を隠すための作法になってしまう。

だから、今は、あえてこう言いたい。

タイトルにもあるように、「礼儀正しくある前に、魂を殺すな」と。

ーーー

ただ、これは礼儀を捨てろという意味じゃないです。そこはくれぐれも誤解しないでほしい点です。

何を言ってもいい、無礼になれ、本音をぶつけろ!という話でもない。むしろその逆を言いたい。

本当の礼儀とは、相手の魂が出てきたときに、それを決して踏みにじらないことだと思っています。また、自分の魂を出すときにも、それを他人への暴力にはしないこと。

場の秩序を守るために人を黙らせるんじゃなくて、人が深いところから言葉を出しても壊れない場をつくり出すこと。ひとりひとりがそのような矜持を持って、自分以外の他者のために「魂」を出せる場をつくり出そうと意欲すること。

それが結果的に巡り巡って、自分の魂を出せる場にもつながっていくわけだから。

それこそが、本当の意味での「礼儀」なんだと思います。

ーーー

繰り返しますが、魂を出すことは、他人を傷つけていい理由には絶対にならない。

本音だから、正直だから許される、なんてこともない。正直さは加害の免罪符じゃない。魂を出す自由と、他人の魂を踏みにじらない責任は、必ずセットです。

ただ、Wasei Salonは、これまでXのアンチテーゼとして、「やさしい場」であろうとしてきた。

でも、AIが出てきた今、これからはもう少し「深い場」でありたいなと思います。

表で止まらずに、裏に行きっぱなしにもならず、裏の裏まで降りて、もう一度表に戻ってくる。そのうえで、本当の意味での「敬意と配慮と親切心、そして礼儀」を、持ち合いたい。

それぞれが、自らの魂を出しても壊れない場を、これからも淡々とつくっていきたいなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。