Xでミッドライフ・クライシス(中年危機)が話題になると、必ず現れてくる人たちが、

「新しいテクノロジーに夢中になっていれば、そんなものに陥っている暇なんてない!」と語る、ビジネス系おじさんたちです。

先に断っておくと、僕は新しいテクノロジーが大好きです。AIも毎日使い倒しています。だからこれは、テクノロジー批判ではまったくありません。

でも、この手の発言を見かけるたびに、どうしても妙な幼稚さを感じてしまう。

「中年危機に悩むやつは、夢中になれるものがない暇人なんだ」と切り捨てる、その態度に。

それがなぜなんだろうと、最近ずっと考えていました。

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で、やっとその違和感の正体が少しずつわかってきました。

「新しいテクノロジーさえ追いかけていれば、人生はいつまでも楽しい」という発想は、ゲームでいう「強くてニューゲーム」にとてもよく似ているなと。

40代にもなれば、20代の頃にはなかった経験があります。そこへAIという強力な武器まで加わってきている。

そりゃあ、強いに決まってます。

昔は10時間かかっていた仕事が、AIの手を借りれば、1時間で終わる。若い人たちがまだ知らないような仕事の勘所もわかっているわけですよね。その状態で新しいビジネスゲームを始めれば、当然のように無双できます。

でもそれは、大学までの知識と記憶を全部持ったまま、小学校一年生からやり直すようなものでもあるわけです。

でも、それの一体何が、そんなにおもしろいのでしょうか。

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誤解のないように書いておくと、強くてニューゲームが好きな人は、もちろん居ていいと思うのです。

レベル99の状態で最初の街に戻って、スライムを一撃で倒すような、その無双状態の快感が好きな人がいることも、よくわかる。

ただ、世の中にはそうじゃない人間もたくさんいるわけですよね。

一度攻略法がわかってしまったゲームを、武器だけ新しくしながら何周もすることに、あるとき急に虚しさを覚えてしまう人間も、確実に存在します。

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そして、ここからが今日いちばん書きたいことなのですが、もしかすると中年危機とは「ゲームに勝てなくなった苦しみ」ではないのかもしれません。

むしろその逆であって、「勝ち方がわかってしまったゲームを、この先も続けることへの苦しみ」なのではないか。

だとすれば、「もっと強い武器を手に入れれば楽しくなるよ!」という助言と言うか処方箋は、問いと答えが根本的にズレていることになってきます。

本人が疑い始めているのは、勝てるかどうかではなく、そもそも、このゲームを勝ち続けることに意味があるのか、なのですから。

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で、ちょうどそんなことを考えていたタイミングで、『夜と霧』でも有名なフランクルについて解説された『ビクトール・フランクル    絶望の果てに光がある』という本をオーディオブックで聴きました。

この本の中で僕がいちばんハッとさせられたのは、フランクルが「人生に意味があるのだろうか」と疑い始めることを、心の不調として扱わないところなんです。

むしろ、自分の人生の意味を疑うことは決して心の病ではなく、心が一定のレベルにまで向上し、成熟してきた証なのだと捉える。これが本当に目からウロコでした。

考えてみれば、毎日をそれなりに楽しく過ごせているあいだは、「人生に意味があるのか」なんて考えません。

犬や猫が、自分がこの世に存在する意味を問うたりしないようにです。

ところが、ある段階まで来ると、ふと問いが生まれてくる。

「これをずっと繰り返していて、いいんだろうか」

「自分は、一体何のために生きているんだろうか」

フランクルに言わせれば、この問いを抱えられること自体が、人間だけに備わった精神性の証なのだと。

これは、中年危機というものを、180度ひっくり返す視点だと思いました。

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そして、この本を読みながら思い出していたのが、2年前に読んだ河合隼雄さんの『中年危機』です。当時、このブログの中でも感想を書きました。


あの本の中で河合さんは、「自分とは何者か」という問いへの、二つのまったく異なる答え方を対比していました。

ひとつは、社会的地位や収入といった、外側にある尺度によって自分を定義するやり方。「〇〇会社の課長である」と思うとき、僕らは会社への世間の評価や、課長職への社内の評価に支えられて、「まあ、そこそこやっている」と感じることができる。

そしてもうひとつが、河合さんが「トポス」と呼んだもの。たった一人で山小屋の前に座って、高い山々の峰を眺めている。

それだけでまったく十分で、「これが私だ」と感じられる瞬間がある、という話です。

いま読み返すと、この対比は、そのまま今日の話と重なります。

「強くてニューゲーム」で無双できるのは、前者のゲームだからです。

年収も役職も、フォロワー数も、外側に尺度があるからこそ、比較ができて、そこに順位がついて、武器を新調すれば、さらに勝ち続けられる。

でもトポスの感覚には、そもそも勝ち負けの尺度が存在しない。山の峰を眺めている「私」には、攻略も、無双もないわけです。

僕が漠然と「勝ち負けのない場所」と考えていたものの正体を、既に河合隼雄の本から受け取っていたなと。

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さらにあの本から学んだことで、今回どうしても思い出さずにいられなかったのが、「中年危機に解決策を求めること自体が、カテゴリーエラーなのかもしれない」という話でした。

中年期の葛藤は、青年期の問題のように、簡単に「解決」できるものではない。ハック思考が通用しない世界の話でもある、と自分自身で書きました。

そう考えると、「中年危機? AIに夢中になれば治るよ」という処方箋は、中年危機へのハック思考の、いわば最新版なのだと思います。

一般的には、「最近なんだか虚しい」「仕事に以前ほど意味を感じられない」となったら、それは解消すべき問題として扱われますし、だから旅行に行ったり、新しい趣味を始めたりする。あとは、これまで挑戦したことのない分野に転職するもそうだと思います。

そして今なら、AIや新しいテクノロジーに夢中になる。

つまり「退屈」という症状に、より強い刺激を投与しようとするわけです。

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でも、フランクル的に考えるなら、その虚しさそのものこそが、実は次の段階への入り口なのかもしれない。

「今までと同じ生き方では、もう自分は満足できない」ということを、精神のほうが先に知らせてくれているわけですから。

だとしたら、それを慌てて消し去ってしまのは、本当に合っているのでしょうか。

少し乱暴にたとえるなら、「虚しくなった?だったらAIをやれ、忙しくしろ」という処方箋は、警報機が鳴っている部屋の中で、その音が聞こえなくなるくらい大音量で音楽を流すことに似ています。

たしかに、それで警報音は聞こえなくなる。

でも、「なぜ警報機が鳴っているのか」という問題は、何ひとつ解決していません。

もちろん、本当にAIそのものに人生の意味を感じている人であれば、何の問題もないと思います。僕自身も、AIとの対話や共作に、心の底からおもしろさを感じている人間のひとりです。

ただ、「意味について考えずに済むほど、忙しくしておくため」に、新しい刺激を摂取し続けているのだとしたら、それは中年危機を乗り越えたのではなく、危機が差し出してくれた問いを、ただ先送りしているだけ。

死ぬ間際に、恐ろしいほどの中年危機的な虚無感が襲ってくるかもしれません。そのときにもっと早くからこの「影」と向き合ってくればよかったときっと思ってしまうはずです。

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で、ここまで来て、ようやく冒頭の「幼さ」の正体が説明できる気がします。

新しいテクノロジーを楽しむことが、幼いのではない。「人生、まだまだ楽しいぜ!」と言えることも、まったく幼くない。それ自体は本当に素晴らしいことです。

そうではなくて、自分にはまだ発生していない問いを抱えている他人に対して、「そんなもの、夢中になれるものがないから考えるんだよ」と処理して言い放ってしまうこと。

自分には理解できない種類の悩みを、相手の能力不足や行動不足へと還元してしまうこと。

それが、とても幼く見える。

養老孟司さんの言葉を借りるなら、これこそがまさに「バカの壁」なのだと思います。自分に理解できない悩みを、「存在しない」ことにしてしまう壁です。

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ちなみに、河合さんの『中年危機』の解説を書いているのも、じつは養老さんです。

養老さんはそこで、先ほどのトポスの話を引きながら、「そう思わない人は、たぶんまだ中年ではないのである」と書いていました。

この一言に従うなら、冒頭のおじさんたちもきっと、彼らは幼稚なのではなく、まだ中年ではないだけなのだ、と。

だとしたら、それはそれで幸福なことです。刺さらないうちは、青年期の快活さを思う存分に享受すればいい。

ただひとつだけ思うのは、自分にまだ刺さらない問いを、「存在しない」ことにするのはやめておいたほうがいいということです。

むしろ成熟とは、「自分には今のところ必要のない問いだ。でも、あの人にとっては切実な問題なのかもしれない」と留保できることだから。

そして皮肉なことに、「常に新しいものを追いかけている自分=いつまでも若い」という自己像にしがみつくことそれ自体が、老いや有限性をまだ受け入れられていないという、中年特有の危機の一番のあらわれのようにも思います。

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また、今日こうして2年前の記事と並べてみると、おもしろいことに気がつきます。

ウィーンの精神科医だったフランクルと、日本の臨床心理学者だった河合隼雄さんが、まったく別の場所から出発して、ほとんど同じ結論に辿り着いていること。

危機は、病ではない。それはむしろ、成熟の過程である、と。

2年前の僕は、河合さんの本を読んで「中年の葛藤を避けて通るのは、もったいない」と書きました。正直に言えば、あのときはまだ、その言葉を頭で理解して書いていたような気もします。

それが今、フランクルのお話を経由して、もう一度自分のもとに返ってきた。

毎日ブログを書き続けていると、たまにこういうことが起きるから、ほんとうに不思議です。

過去の自分が置いていった手紙を、未来の自分が受け取り直すようなことが、自然と起きるし、起きてしまう。そして、それが時代の流れやホットワードとも、見事にリンクする。

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中年危機は、修正すべきバグではなく、人生から届いたプッシュ通知なのかもしれません。

「そろそろ、次の問いを考える時期ですよ」と。

もちろん、中年危機を礼賛したいわけではないし、本当に深刻な状態であれば、きちんとした助けが必要であることは間違いない。

ただ、人生の折り返し地点で、ふとスマホゲームを中断するように飛び込んでくる生まれてくる「このままでいいのだろうか」というプッシュ通知を、すべて不要な通知としてスワイプして消去してしまうのはもったいない。

集中モードに設定し、いつまで「強くてニューゲーム」を続けるのか。

その虚しさが何を問いかけているのかに耳を澄ませてみるところから、人生の後半戦は始まるような気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。