昨日、ChatGPTの新モデル「Astra」の発表を眺めながら、ひとつ不思議な現象にふと気がつきました。

新しいAIモデルが出てくると、昨日までできなかったことが、今日から新たにできるようになる。本当に魔法みたいな話です。

それ自体はうれしいことですし、僕自身も「今ならあれもできるかもしれない」と、あれこれ想像がふくらんでいました。

でも、ふと我に返ると、この一日で成長したのはAIのほうであって、僕ではないんですよね。

僕は何も学んでいないし、何も鍛えていない。それなのに、次にやれることだけがドンドンと増えている。なんならまったく捌ききれていないような状態です。

言うなれば、少年漫画のような成長物語の主人公が、一切修行しなくても、次のステージへ進めるようになってしまったイメージ。

そんな不思議な時代が、本当にいま着々と進行しているんだなと思ったのです。

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このことは、きっとAI時代のインフルエンサーと呼ばれる人たちを見ていると、いちばんわかりやすいかと思います。

彼らが本当に売っているものは、「AIで何かを実現すること」以上に、「AIを使って何かに挑戦している自分の姿」というリアリティーショーになってきたのではないかと。

観客は、その夢が叶う瞬間を見届けたくて応援している。なんだったら推し活をしている。

でも、発信する側にとっては、夢や目標のほうが、挑戦する自分を見てもらい続けるための舞台装置や手段になっていくわけですよね。

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で、ここまでなら、AI以前からあった話です。「挑戦する自分」を見せて生きてきた人は、昔からたくさんいました。

ただ、従来と違うのは、本人が一切修行しなくても、物語を更新できてしまうことです。ここが本当に従来とまったく異なるところだなあと。

新しいAIが出るたびに、AIのほうが勝手に賢く強くなってくれて、主人公は何も変わらないまま、「今ならこれもできるかも」と、次の物語をカンタンに始められる。しかも数カ月おきに、です。

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ひとつの夢が叶わなくても、次のAIの新モデルが、次の夢を見せてくれる。前の挑戦の結末を確かめるより先に、次の物語が始まってしまう。

夢を実現するためにAIを使っていたはずが、いつの間にか、挑戦する自分で居続けるために、AIから新しい夢をもらい続けるようになるわけです。

ここで言いたいのは、彼らが嘘つきだとか、演技をしているという話ではありません。

たぶん本人は、そのたびに本気でやりたくなっている。その誠実さと、この構造とが、まったく矛盾せずに両立してしまうところに、現代的な特殊性があるなと。

だからこそ、不気味であって、『世にも奇妙な物語』みたいな怖さがあるのだと思います。

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ただ、ここまで書いて、少し自分自身にも問い返したくなりました。

夢が外からやってくること自体は、別に悪いことではないはずです。

本との出会いや、人との出会いから「夢」が一夜にしてあらたに生まれることなんて、いくらでも既存の社会の中に存在していた。

たった一冊、たったひとりのひととの出会いが、昨日までの自分では想像もつかなかったところへ導いてくれる場合だってあるわけです。(ナメック星に行ったときの悟飯とクリリンみたいに)

外から来た夢だから偽物だ、なんて言えるわけがない。

AIに触れたことで初めて、自分がやりたかったことに気づく場合だってあると思います。

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じゃあ、いま僕が本当に引っかかっているのは、何なのか。

そのあたりを最近ずっと考えているのですが、たぶん、それは夢がどんどん変わっていくことではなくて、それなのに、その夢を語る「自分」の立場だけは、まったく変わらないという点なんだと思います。

何にでも挑戦できる。でも、「挑戦していない自分」にはなれないという点。

文字にしてみると、本当に不思議な言葉というか状態なのですが、

でも、これって、客観的には、選択肢が増えているようでいて、ほんとうに自由になっているんだろうかと思ったのです。

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この点、少し前に、若松英輔さんの『大人のための宗教入門』の読書会をきっかけに、「改心」と「回心」の違いについて書きました。

参照:「私」を手放そうとするほど、「私」が強くなる。

そのとき僕は、「改心」を、「私」という主語はそのままにして、その後ろに続く述語だけを書き換えていくような変化として考えていました。

たとえば、「私は怠けている」から「私は努力する」へ。「私は知らない」から「私は知っている」へ。

今の自分より、少しでも理想に近い自分になろうとする。それは大切なことなのだけれど、どれほど大きく変わっても、その中心にはずっと「私」がいるのだと。

一方で、「回心」のほうでは、その生きる主体そのものが問われる。

自分が生きているのではなく、自分は生かされている。自分の力で人生を動かしてきたつもりだったけれど、そもそも自分は、さまざまなはたらきや関係のなかで生きていたのではないか。

そのように、矢印がくるっと反対を向いて、自分が生きているという前提そのものが変わってしまうこととして「回心」を受け止めていました。

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今回の話も、きっと、このふたつの言葉で考えるとよくわかる気がします。

これからのAIは、新モデルが出てくるたびに、この述語の書き換えを、人間の代わりに、しかも爆速で引き受けてくれる。

「私は動画がつくれない」から「私は動画がつくれる」へ。「私はコードが書けない」から「私はコードが書ける」へ。

その「私」自体は一ミリも動かないまま、できることだけが、新しいモデルが出るたびにドンドンと更新されていく。

心を改めて、努力して、その先で手に入れるはずだった「できる自分」を、心が変わらなくても、いくらでも先に手に入れられる。

そういう意味では、「回心」どころか「改心」すらしなくていいわけです。

主人公が一切修行しなくてもいい、というのは、まさにそういうことでもあるのだと思います。

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そう考えると、以前から何度も書いてきた、キャラに「居着く」話なんかともつながってきます。

参照:僕がWasei Salon内で「◯◯さんらしい」という言葉...

「あなたはそういう人ですよね」と期待され、その通りに振る舞うほど、数字も仕事も、人間関係も積み上がっていく。

最初は、つながりをつくるために、初対面の他者に説明しやすい自分として、自分の一部分を少し強調して見せていただけだったはず。

でも、そこに生活を支えるものが積み上がると、今さら別の自分になるのは、ずいぶん割に合わないことになってしまう。

ネット上のハンドルネームひとつとっても、そうです。

10年前の自分が、そのときの感覚やノリで選んだ名前に、今の評判や仕事が全部ぶら下がっている。人間なんて10年も経てばガラッと変わるのに、その名前には、昔の自分への期待が残っているわけですよね。

そして気づけば、名前が自分を表しているというより、自分が今度は、その名前を演じ続けるようになる。

やがて、別の人間になってもいいという自由よりも、今の自分でいる合理性のほうが勝ってしまう。

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夢を次々と変える人と、同じキャラに居着く人。一見すると、このふたつは正反対に見えます。

でも、「挑戦し続ける人」というキャラなら、夢を変え続けること自体が、そのキャラで居続けるための方法になる。

変わっているのは述語だけであって、応援される主人公という主語自体は、一ミリも変わっていない。

むしろ、述語を素早く更新できるようになったぶん、主語だけは、ますます固定化されていくわけです。

このあたりは、本当に現代の価値観と異なることを書いてしまっているので、ややこしいことは重々承知のうえなのですが、でもそれゆえにめちゃくちゃ大事な視点だなとも思っています。

言うなれば、行動の幅はどこまでも広がっているのに、その行動をする「私」の役割だけが、動かせなくなっている。

AIの進化によって、何にでもなれる時代に、今の自分(キャラ)だけをやめられないわけですから。

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でも僕は、これが本人の中だけで済む話ではないと思っています。

今朝ちょうど、AIに仕事を奪われたライターの話が流れてきたとき、それに対して「取材ができるライターや、独自の視点を持ったライターは残る」という声を見かけました。


僕自身も取材をする側の人間なので、その気持ちは痛いほどわかります。そして、ライターの中でもどんな仕事が残りやすいのかを考えること自体は、必要なことでもある。

ただ、そこでモヤッとしたのは、誰かに起きた出来事が、いつの間にか、自分の価値を証明する話にすり替わっていたことです。

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たとえば「あの人が仕事を失った」と聞いたとき、まず問われているのは、その人に何が起きたのか、その人が今どんな状況にいるのかであるはずです。

でも、自分の立場が脅かされたように感じると、僕らは「自分はあの人とは違う」という説明を、先に始めてしまう。

「この仕事には需要が残りそうだ」という見通しから、「だから、自分には本当の価値がある」というそんな自らの存在証明へ、話が移っていく。

それは、なぜか。怖いからですよね。自分もそっち側に巻き込まれる可能性が今後はあるかもしれないから。

そして実際、その線だって、いつまでそこに引いておけるのかわからない。

また数ヶ月後には、その線ごと大きな津波に飲み込まれるかもしれない。それぐらいの感覚で、今のAIの爆速で進化をしています。

そのたびに「本当に価値がある仕事」を定義し直して、昨日まで一緒に働いていた人たちを、線の外へ置いていくんだろうか。

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ここまでの話をまとめると、自分の立場を守るために更新しているのが、あるときは「夢」であり、あるときは「仕事の価値」の定義でもある。

変えているものは違っても、「自分は価値がある側だ」という立場を変えずに済ませようとしている点では、ほとんど同じ構造なのだと思います。

しかも、そこには不気味な非対称が存在する。

自分の挑戦がうまくいかなかったときには「次の可能性」があるのに、他人が仕事を失ったときには「本当の価値がある仕事とは何か」という説明になってしまう。

つまり、自分には物語の続きを認めるのに、他人には、その時点での評価を下してしまう。

自分を主人公の位置に置き続けようとすると、周りの人はどうしても、応援役か、比較対象か、時代の変化を示すただの指標になってしまうんですよね。

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何にでもなれる時代に、今の自分をやめられない。それが、今日いちばん書きたかった、現代のジレンマでもあり、この時代の恐ろしさだなあと。

ただ、ここでひとつ、どうしても残る問いがあります。

そうやって新しい挑戦を語り続けられなくなったとき、僕らは一体どうなるんだろう、ということです。

AIは次の可能性をいくらでも示してくれる、それは間違いない。でも、それに心が動かなくなったとき、「まだ、もっとできる」と言われること自体が、自分のなかで苦しくなってしまったとき。

そのときに必要なのは、それでも、もうひとつの「新しい夢」を見つけることなんだろうかと。

実はこの話、以前書いたミッドライフ・クライシスの話とも見事につながるし、そして僕がWasei Salonでどんな場をつくりたいのかという話とも、深くつながっているような気がしています。

ここから先は長くなってしまうので、今日はここまでにして、明日あらためて続きを書いてみたいと思います。

自分で自分の価値がわからなくなったときにも、僕らは互いのことまで、見失わずにいられるのか、明日に続きます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。